二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

広津和郎と平野謙

2015年08月23日 | エッセイ(国内)
(本日たまたまクルマに積んである本)


このところ近代文学熱がリバイバルしているのだが、その割にはさして読めているわけではない。少しでも時間があったら、かつては、むさぼるように本を読んだ。活字モードのスイッチがONになると、読みたい本が、つぎつぎあらわれる。
興味深い本を一冊読むと、その本が、つぎの一冊をつれてくる。つぎの一冊も、読まずにいられない。そうしてどんどんと、本の世界が拡がっていく。

借りて読む・・・という人がいる。蔵書の趣味というか、コレクションの愉しみがない人なのだろう。レンタルですませれば、荷物やゴミがふえなくていいじゃないという考え方がわからないわけではないが、わたしの場合は、どうしても所有欲がからむ'`,、('∀`)
写真集や専門書に近い本(最近の例でいえば、藤原書店から刊行されているバルザックやゾラの訳書)は高額なので、借りてくることもある。しかし、返却にいくのが、面倒であり、つい図書館からは足が遠のく。

「たとえ100円でもいい。身銭をきって、買って読め!」
これがわたしMikenekoの流儀なのであります。

近代文学に復帰した第一の原因は、西村賢太さんの「苦役列車」「疒の歌」を読んだからだ。それが引き金となり、以前から気になっていた、川崎長太郎への関心が本格化。川崎さんの向こうには、

徳田秋声
葛西善蔵
嘉村礒多
太宰治

という作家たちが、見えかくれする。鴎外、漱石、芥川などという人気作家とは、系列が違っている。非知識人の文学、愚者の文学である。

表現をかえていえば、愚者というのは、とるにたらない凡庸な人というほどの意味で、英雄豪傑ではないのはむろん、天才でも秀才でもない。「そこにいるあんた、ここにいるおれ」が主人公になる。その人と日々の出来事をありのままに書く(何パーセントかは脚色されたりしながら)から、ストーリーがおもしろいはずはない。

ところで近代文学といえば、小説の地位が圧倒的に高かった。
私小説の作家も、その地位にあこがれ、芸術的生活への殉教ぶりを競ったのである。評論家たちはそれを批判したが、批判によって根絶やしにされたわけではない。少数ながら読者・ファンは現代にも存在するし、これからも細々と生き延びていくだろう。

今日はそういった時代にあって困難をしのぎきった人の著作から、広津和郎、平野謙のそれぞれ一冊を取り上げて、手短に独断と偏見に満ちた感想を書いてみる。



■広津和郎「新編 同時代の作家たち」(紅野敏郎編・岩波文庫)から
「あの時代 —芥川と宇野—」
本書にはこのエッセイのほか、「『蔵の中』物語」「島村抱月」「田山花袋」「菊池寛」など、14編が収録されている。
広津和郎さんの文を読むのは、まったくはじめてとはいえ、どんな人であったのかは、おおよそ見当がついていた。
文庫本で90ページくらいあり、広義の意味ではよくある文壇交遊録だといえる。友人として親しいつきあいのあった宇野浩二と、先輩として畏敬してきた芥川龍之介の人間的一断面が、驚くほど鮮やかに切り取られている。その腕前、エスプリのきかせ方はたいしたもので、最後まで読者をぐいぐい引っ張っていく。

これ、遠藤周作センセイ流か安岡章太郎センセイ流のユーモラスな“交遊録”の路線だと予想していたら、とんでもない。当事者としてかかわった、あるいはかかわらざるをえなかった深刻な事件の裏話であり、ノンフィクションなのである。
狂気となって、異常なことを口走ったり、理解を絶した奇矯な行動をしたりする友人宇野浩二を精神病院に入院させるまでの顛末が、このエッセイの眼目。
広津さんが医師としてたよりにしたのは、青山脳病院の院長で、当時名医のほまれ高かった歌人斎藤茂吉。

家族たちの困惑と不安、広津さん自身のあわてぶりが、ことこまかに書かれてある。わたしは若いころ精神科の病院に事務スタッフとしてかかわったことがあるから、経験的にわかるが、狂気の発作を起こした病人を、医療のスタッフとしてではなく、身近な一般人として、これほどの精度、密度で書いた文章を、これまで読んだ覚えがない。
正気と狂気の境目・・・紙一重といっていい、その精神の破れ目を、広津さんの眼とことばは、見事にとらえ得ている。

広津和郎の小説は今日、ほとんど知られていない。
老年になってから取り組んだ松川裁判でその活躍が有名になるが、そういうことを考えあわせると、ノンフィクションライターとしての才が一流であったように思われる。むろん当時、ノンフィクションというジャンルは、まだ確立してはいなかったが。

あるいは精神に異常をきたしてからの芥川との交友を思い返す広津さんの観察眼は、たいへん精度が高い。
「あの時代」などと味も素っ気もないタイトルなので、うかうか通り過ぎてしまう。
昭和2年3年、文学の世界は大変動を迎える。政治思想としてのマルクス・レーニン主義とプロレタリア文学運動の隆盛が、既成作家を文壇から駆逐する勢いがあった。原因はそればかりではないだろうが、多くの作家が袋小路に追いつめられ、小説が書けなくなったのである。

そういう時代を内側から語った貴重な証言の書であり、透徹したノンフィクションの逸品である。宇野浩二をわたしは読んだことがないので、読んでからまたここへもどったらおもしろさがますだろう。
同時収録の「『蔵の中』物語」を先走って読んでしまったが、広津さんの温かい、人間味に満ちた筆さばきが、非常に印象的だった。

この時代の文学は芸術であり、大文字・ゴシック体の文学であった・・・とおもえる。平成の世たる現代とは較べようがないくらい文学はえらかったのだ(笑)。



■平野謙「芸術と実生活」(岩波現代文庫)より
「私小説の二律背反」
この評論はその筋の人にはたいへんよく知られている。名評論といっていいだろう。車谷長吉さんも西村賢太さんも、きっと苦々しく思いながら、しっかりと読んでいるはずである(^皿^)
平野さんには、「女房的文学論」といういささかうっとおしくなるようなトリビアリズムを下敷きにしたものの考え方がある。重箱の隅をようじでほじくるような無意味なことにこだわっているわけではむろんないのだが、批判をうけた側は、そんな感想をいだくかもしれない。

外科医がメスをふるうように、作家のいわば“創作の秘密”を暴いていく。
日本自然主義批判、私小説批判は、伊藤整と中村光夫が理路整然、論理的にやっているのだが、平野さんの「私小説の二律背反」は、ダメ押しというのに近いだろう。しつこさが身上という評論集だが、こってりした味もOKという人には、読み応え十分と評価できるだろう。

ところで、平野さんには「島崎藤村」という代表作があるが、わたしは最後まで読み通していない。
なぜかというと、作品を、作家論を展開するための“資料”としてしか見ていないと思われたからである。したがって、彼の“読み”はすぐれてはいるだろうが、しばしば興ざめ。

病巣はえぐってことなきを得たはずなのに、肝心な病人は死んでしまった。これじゃ仕方ないだろうと、わたしは思うものである。
本書に収録されている「永井荷風」を読んでみて、その印象はますます強くなった。
分析は正確で鋭利。
しかし、じゃいいのかね? 気に入らないのかね? ということが、なかなかハッキリしない。
もってまわったいい方をするからまぎらわしいが、わたしは「文人肌まるだしの荷風は嫌いだが、『濹東綺譚』は認めてもいいよ」といっている・・・と読んだ(笑)。
気むずかし屋の評論家にも、存在理由はむろんある。わたしのような変人が、ニヤニヤしながら「へええ、うん。うまいこといいやがる」な~んて読んでいる´Д`アハハ

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