二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

アントン・ブルックナーの方へ(ポエムNO.20)

2011年06月29日 | 俳句・短歌・詩集
ベートーヴェンの最後の方のピアノ・ソナタを何曲か聴いているとき
彼が結婚し子どもがいたら
ずいぶん違った音楽が生まれてきたんじゃないかと考えたことがあった。
ブルックナーのシンフォニーだって
単独者の音楽以外のものじゃない。
たったひとり じつに堂々と 神というか
この大宇宙と向かい合っておのれの存在理由を問いかけている。
生活感情がうすいための落魄感と 自己自身への子どものような熱狂と
流行遅れのよれよれ外套。

こころにかかっている重力がすごい。
いつもなにか考えこんでいて
ぼくがここにきているのに気がつかない。
「ブルックナーさん! ・・・ブルックナーさん
そこにいるのはブルックナーさんでしょ?」
「なんだ? わしに手ほどきをうけたいというのは きみか。
音楽のこと以外は教えることはなにもない。
さあ 帰りたまえ帰りたまえ。
セクシーな女弟子が腰をもじもじさせながらわしを待っているのでな」
そこいらにいる靴直しのじいさんのように敷石の道をとぼとぼ歩いていく。

目を覚ますとこのあいだ買ってきたばかりの五番のシンフォニーが聞こえている。
四つのスピーカーが部屋の空気をかきまぜている。
包丁をいれるとタマネギのように
同心円状に第一 第二 第三 第四楽章がならんでいたり
そうでなかったり。
ウィーン大学の裏路地ですれ違ったときと同じように
お得意の黒い服に身をかため気弱な笑みをうかべていたあの男の手から
七番や八番のような(むろん九番をふくめてもいいのだけれど)
奇蹟の音楽がこの世に形をなしたのだ。

「偉大なる愚かしさ」の感覚を現代人は失ってしまったな。
十九世紀の人が大きく見えるのはそのあたりにも理由があるんだ。
たとえば・・・そう あのバルザックがたっぷりともっていたような。
その感覚と彼らの作品はむろん密接なつながりがある。
愚かしさとは ありうるかもしれない
世界と人間との和解のしるしなのだ きっと。
さて ブルックナーを聴きおえたらなにをするかだって?
そこいらの町角で咳き込んでいるじいさんを称えるために外へ出かけるのさ。
どうしたら それができるかを考えるために。




※写真と詩は直接の関係はありません。


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