■大岡信「紀貫之」(ちくま学芸文庫)を読む
「紀貫之」を読み終えた読者は、この歌人に事寄せ、大岡さんが、遠まわしに自分自身を語っていることに気がつくだろう。解説の堀江敏幸さんも、大岡さんの作品を例にあげて、そのあたりを明快に指摘しておられる。
本書には40歳の若々しい、前途洋々の大岡さんの声が聞こえる。明るい光が、ページの奥まで差し込んでいる。才気みなぎる、すばらしい一冊に仕上げた著者の手腕に、脱帽しない読者は少ないだろう。
しかもずばりいえば、紀貫之=大岡信という等式が成り立っているのだから、それを念頭に置いて読みすすめていく興味がくわわる。
さてここで、学芸文庫に付された紹介文を引用させていただく。
《紀貫之は「古今集」の重要な歌人かつ中心的な編者であり、「土左日記」の著者としても知られ、また「伊勢物語」の作者にも擬せられている人物である。しかし「下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集」と正岡子規によって痛罵されて以来、つねにその言葉がつきまとい、正当な評価が妨げられてきた。
はたしてそうだったのか?
本書は、詩人の魂による繊細な鑑賞によって「子規以来」のイメージを覆し、貫之が「フィクション」として豊かな才能に恵まれていたことや古今集の特徴である象徴と暗示を体現した歌人であったことなどを、精緻に論証していく。
貫之の復権を成さしめた画期的歌人論。読売文学賞受賞。》(BOOKデータベースより引用。ただし改行を付す)
名誉回復は十分はたされた。子規が桂園派に啖呵を切ったようにではなく、慎重な検証・論証を積み重ねて。
著者にとっては最初の書下ろし単行本。それはいま読み返しても十分すぎる鮮度をたもっている。さきへすすんでいくのが、もどかしかったほど。
■水底に影しうつればもみじ葉の色も深くやなりまさりらむ
■二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさえ花ぞ散りける
■水底に影さえ深き藤の花花の色にや棹はさすらむ
著者も指摘してはいるが、これらは名歌というような歌ではない。しかし、一読して忘れがたいおもしろいイメージであることは疑いない。
大岡さんは、こんなところに目をつけているのだ♪ 貫之が大岡さんを引き寄せたのか、大岡さんが貫之を引き寄せたのか?
稀有な出会い・・・といえるものが、ここには存在する。
ご覧のように、すべて水に映じた景色を詠んでいる。著者はこういった一群の和歌を紀貫之から見出したとき、快哉を叫んだだろう。大岡さんの詩との共通項があることを、解説で堀江さんも書いておられる。
つぎの二首も、あらためて指摘されてみるとうーん、と首肯せざるをえない。
■さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける (紀貫之)
■春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空 (藤原定家)
ずば抜けて有名な定家卿の歌に比べ、語彙の華麗さでは劣っているだろう。しかし、貫之のまなざしは、「もう一つの世界」へと読者を拉し去る喚起力を、明らかに備えている。
いろいろな角度から、大岡さんは貫之を照射していく。
古今和歌集を編纂しながらそれをリードし、大和歌のマニフェストともいえる「仮名序」を書いた、詩人にして批評家たる紀貫之。
だがそれだけではなく、《苦み走った人生観察者の貫之》にも、存分に筆をついやしていて、説得力がある。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほいける (貫之)
このよく知られた一首は正岡子規の、
《春や昔 十五万石の 城下かな》
を思い出させずにはおかない。
開巻劈頭で噛みついてはいるが、よく読んでみると、子規は徹頭徹尾けなし、嫌いぬいているわけではない。子規が敵としたのは、おもに江戸時代の御用歌人たち。明治の世となっても彼らが持つ隠然たる勢力を一掃したかったわけだ(。-_-。)
本書は七つの独立した章から成り立っている。
一 なぜ、貫之か
二 ひとはいさ心も知らず
三 古今集的表現とは何か
四 袖ひじてむすびし水の
五 道真と貫之をめぐる間奏的な一章
六 いまや牽くらむ望月の駒
七 恋歌を通してどんな貫之が見えてくるか
これらの各章のうちで、第五章「道真と貫之をめぐる間奏的な一章」と、第六章「いまや牽くらむ望月の駒」が、わたしには別して印象が深かった。大岡さんの愛読者なら指摘するまでもないが、「道真と貫之をめぐる間奏的な一章」は、後の仕事の重要な基幹をなしている。
大岡信さんは「折々のうた」によって絶大な名声を博した詩人である。しかし、それ以上に、古典詩歌の分野で、目覚ましい実績をあげたのだ。
「そんなこと、とっくに知っている」という人で、この「紀貫之」はまだ手に取っていない読者があったら、ぜひ一読をおすすめしたい。
古今和歌集と紀貫之は、まことにたのもしい、最強・最良の弁護人を得たといべきだろう。
たったいま、釣り上げたばかりの鯛のようにぴちぴち活きがいい一冊であることは、わたしが保証いたします( ^_^)ハハ
「紀貫之」を読み終えた読者は、この歌人に事寄せ、大岡さんが、遠まわしに自分自身を語っていることに気がつくだろう。解説の堀江敏幸さんも、大岡さんの作品を例にあげて、そのあたりを明快に指摘しておられる。
本書には40歳の若々しい、前途洋々の大岡さんの声が聞こえる。明るい光が、ページの奥まで差し込んでいる。才気みなぎる、すばらしい一冊に仕上げた著者の手腕に、脱帽しない読者は少ないだろう。
しかもずばりいえば、紀貫之=大岡信という等式が成り立っているのだから、それを念頭に置いて読みすすめていく興味がくわわる。
さてここで、学芸文庫に付された紹介文を引用させていただく。
《紀貫之は「古今集」の重要な歌人かつ中心的な編者であり、「土左日記」の著者としても知られ、また「伊勢物語」の作者にも擬せられている人物である。しかし「下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集」と正岡子規によって痛罵されて以来、つねにその言葉がつきまとい、正当な評価が妨げられてきた。
はたしてそうだったのか?
本書は、詩人の魂による繊細な鑑賞によって「子規以来」のイメージを覆し、貫之が「フィクション」として豊かな才能に恵まれていたことや古今集の特徴である象徴と暗示を体現した歌人であったことなどを、精緻に論証していく。
貫之の復権を成さしめた画期的歌人論。読売文学賞受賞。》(BOOKデータベースより引用。ただし改行を付す)
名誉回復は十分はたされた。子規が桂園派に啖呵を切ったようにではなく、慎重な検証・論証を積み重ねて。
著者にとっては最初の書下ろし単行本。それはいま読み返しても十分すぎる鮮度をたもっている。さきへすすんでいくのが、もどかしかったほど。
■水底に影しうつればもみじ葉の色も深くやなりまさりらむ
■二つ来ぬ春と思へど影見れば水底にさえ花ぞ散りける
■水底に影さえ深き藤の花花の色にや棹はさすらむ
著者も指摘してはいるが、これらは名歌というような歌ではない。しかし、一読して忘れがたいおもしろいイメージであることは疑いない。
大岡さんは、こんなところに目をつけているのだ♪ 貫之が大岡さんを引き寄せたのか、大岡さんが貫之を引き寄せたのか?
稀有な出会い・・・といえるものが、ここには存在する。
ご覧のように、すべて水に映じた景色を詠んでいる。著者はこういった一群の和歌を紀貫之から見出したとき、快哉を叫んだだろう。大岡さんの詩との共通項があることを、解説で堀江さんも書いておられる。
つぎの二首も、あらためて指摘されてみるとうーん、と首肯せざるをえない。
■さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける (紀貫之)
■春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空 (藤原定家)
ずば抜けて有名な定家卿の歌に比べ、語彙の華麗さでは劣っているだろう。しかし、貫之のまなざしは、「もう一つの世界」へと読者を拉し去る喚起力を、明らかに備えている。
いろいろな角度から、大岡さんは貫之を照射していく。
古今和歌集を編纂しながらそれをリードし、大和歌のマニフェストともいえる「仮名序」を書いた、詩人にして批評家たる紀貫之。
だがそれだけではなく、《苦み走った人生観察者の貫之》にも、存分に筆をついやしていて、説得力がある。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞむかしの香ににほいける (貫之)
このよく知られた一首は正岡子規の、
《春や昔 十五万石の 城下かな》
を思い出させずにはおかない。
開巻劈頭で噛みついてはいるが、よく読んでみると、子規は徹頭徹尾けなし、嫌いぬいているわけではない。子規が敵としたのは、おもに江戸時代の御用歌人たち。明治の世となっても彼らが持つ隠然たる勢力を一掃したかったわけだ(。-_-。)
本書は七つの独立した章から成り立っている。
一 なぜ、貫之か
二 ひとはいさ心も知らず
三 古今集的表現とは何か
四 袖ひじてむすびし水の
五 道真と貫之をめぐる間奏的な一章
六 いまや牽くらむ望月の駒
七 恋歌を通してどんな貫之が見えてくるか
これらの各章のうちで、第五章「道真と貫之をめぐる間奏的な一章」と、第六章「いまや牽くらむ望月の駒」が、わたしには別して印象が深かった。大岡さんの愛読者なら指摘するまでもないが、「道真と貫之をめぐる間奏的な一章」は、後の仕事の重要な基幹をなしている。
大岡信さんは「折々のうた」によって絶大な名声を博した詩人である。しかし、それ以上に、古典詩歌の分野で、目覚ましい実績をあげたのだ。
「そんなこと、とっくに知っている」という人で、この「紀貫之」はまだ手に取っていない読者があったら、ぜひ一読をおすすめしたい。
古今和歌集と紀貫之は、まことにたのもしい、最強・最良の弁護人を得たといべきだろう。
たったいま、釣り上げたばかりの鯛のようにぴちぴち活きがいい一冊であることは、わたしが保証いたします( ^_^)ハハ