
精神医学用語に「境界例」ということばがある。
興味をもった方は、検索してみたらきっとおもしろいだろう、そういう病気に苦しんでいる患者さんには失礼だけれど。
そのことばを、写真の世界に適用してみようと、昨晩ベッドの中で、眠れず、輾転反側しながら考えた。
失敗作、成功作。
わたしはそのことで、年がら年中頭を悩ませている。まあ、深くは考えないから、表面的、一過的なものにすぎないけれど。
このところ「これは失敗作だなぁ。よし削除しよう」と瞬間的に考え、その直後、考えを翻すことが多くなった。
「あなたが失敗作と感じた、それこそが、成功作じゃないのか!」
・・・ともう一人のわたしが囁く。
そこで過去の写真を見なおしたりしている(。・ω・)
冒頭にご紹介したように、精神医学用語に、“境界例”がある。
そこでそれにあやかって(まったく違った意味に転化するが)、写真にも境界例があるのではないかと考えてみた。
成功作といえるレベルにはないが、失敗作と断じて削除してしまうには、ためらいを感じる。
何もかもたくさんバシャバシャと撮影するせいか、そういうフォトが、過去にもあったし、現在もある。
比較のため、わたしが「成功作」と自己評価している作品を2枚掲げる。
(1)

(2)

どちらもお祭りのとき撮影させていただいたもの。
これまで何度も書いているように、これらはMikenekoさんの人生論、幸福論なのである。
「なんだこりゃ! ヤラセじゃねえのか(・"・。)」なんて冷やかさないでいただきたい。
本人は大まじめ(笑)。
さてここでトップの写真をご覧いただきたい。
つい先日「雨の前橋」で撮らせていただいたカットだけれど、アルバムにはUPしなかった。
つぎのクリアな写真とかぶってしまう、どちらか一方を選び、一方を捨てる。

そして、こちらになったのである。
その直後、成功か失敗か、ちょっと判断に迷う作品を数枚撮った。
(3)

主が傘、脇が小学生。
これが逆だったら、あまり迷わず成功作の候補となるだろう。
(4)

う~ん、こんなにブレブレ、ボケボケでいいのか(´д`;;
どちらのカットもクルマの運転席からのスナップで「エイヤッ!」と気合で撮っている。
自信がなかったけれども、(3)には4件のイイネ!マークをいただき、(4)にも4件のイイネ!マーク、そして水花*゜さん、あっCさんからうれしいコメントまでいただくことができた。
そしてわたしMikenekoは考えた(へたな考え休むに似たり・・・というヤツだ)。
「そうだ、こういう危ういカットを境界例として取り扱えばイイのだ」と。
成功作、失敗作、どちらにも転ぶ。
いつもいつも、コントラストくっきり、シャープネス満点、構図バッチリより、「ありゃりゃ、こんなの撮れたよ」がおもしろい。
長らく写真をやっていると、固定観念の殻が出来上がってしまう。そこから一歩二歩踏み出すのは容易なことじゃないだろう。
つまり境界例としてくくりたくなる写真の中に(それだけではないが)、わたしMikenekoの未来がある・・・なんてね(*゚∀゚*)
アハハ、いうことがちょっとオーバーだな、まあいつものクセだけれど。
ほかの人の写真を見るときも、役にたつ。
たとえば写真集。境界例といえる作品が必ず混じっている。「うーん、この一枚は失敗作だろう」
それが境界例である。すべて傑作・秀作尽くしだったら、一枚一枚の自己主張が強くなりすぎる。あえて冒険をしたり、凡作をすべり込ませたり。
ほんとうはA作、そしてB作を見せたい。しか~し、これを効果的に見せるためには「つなぎ」が必要だというフォトグラファーの直観。
境界例はそういう作品を指している。
そのあたりに、じつは「写真の奥義」があったりするのかもしれない(^^♪
興味をもった方は、検索してみたらきっとおもしろいだろう、そういう病気に苦しんでいる患者さんには失礼だけれど。
そのことばを、写真の世界に適用してみようと、昨晩ベッドの中で、眠れず、輾転反側しながら考えた。
失敗作、成功作。
わたしはそのことで、年がら年中頭を悩ませている。まあ、深くは考えないから、表面的、一過的なものにすぎないけれど。
このところ「これは失敗作だなぁ。よし削除しよう」と瞬間的に考え、その直後、考えを翻すことが多くなった。
「あなたが失敗作と感じた、それこそが、成功作じゃないのか!」
・・・ともう一人のわたしが囁く。
そこで過去の写真を見なおしたりしている(。・ω・)
冒頭にご紹介したように、精神医学用語に、“境界例”がある。
そこでそれにあやかって(まったく違った意味に転化するが)、写真にも境界例があるのではないかと考えてみた。
成功作といえるレベルにはないが、失敗作と断じて削除してしまうには、ためらいを感じる。
何もかもたくさんバシャバシャと撮影するせいか、そういうフォトが、過去にもあったし、現在もある。
比較のため、わたしが「成功作」と自己評価している作品を2枚掲げる。
(1)

(2)

どちらもお祭りのとき撮影させていただいたもの。
これまで何度も書いているように、これらはMikenekoさんの人生論、幸福論なのである。
「なんだこりゃ! ヤラセじゃねえのか(・"・。)」なんて冷やかさないでいただきたい。
本人は大まじめ(笑)。
さてここでトップの写真をご覧いただきたい。
つい先日「雨の前橋」で撮らせていただいたカットだけれど、アルバムにはUPしなかった。
つぎのクリアな写真とかぶってしまう、どちらか一方を選び、一方を捨てる。

そして、こちらになったのである。
その直後、成功か失敗か、ちょっと判断に迷う作品を数枚撮った。
(3)

主が傘、脇が小学生。
これが逆だったら、あまり迷わず成功作の候補となるだろう。
(4)

う~ん、こんなにブレブレ、ボケボケでいいのか(´д`;;
どちらのカットもクルマの運転席からのスナップで「エイヤッ!」と気合で撮っている。
自信がなかったけれども、(3)には4件のイイネ!マークをいただき、(4)にも4件のイイネ!マーク、そして水花*゜さん、あっCさんからうれしいコメントまでいただくことができた。
そしてわたしMikenekoは考えた(へたな考え休むに似たり・・・というヤツだ)。
「そうだ、こういう危ういカットを境界例として取り扱えばイイのだ」と。
成功作、失敗作、どちらにも転ぶ。
いつもいつも、コントラストくっきり、シャープネス満点、構図バッチリより、「ありゃりゃ、こんなの撮れたよ」がおもしろい。
長らく写真をやっていると、固定観念の殻が出来上がってしまう。そこから一歩二歩踏み出すのは容易なことじゃないだろう。
つまり境界例としてくくりたくなる写真の中に(それだけではないが)、わたしMikenekoの未来がある・・・なんてね(*゚∀゚*)
アハハ、いうことがちょっとオーバーだな、まあいつものクセだけれど。
ほかの人の写真を見るときも、役にたつ。
たとえば写真集。境界例といえる作品が必ず混じっている。「うーん、この一枚は失敗作だろう」
それが境界例である。すべて傑作・秀作尽くしだったら、一枚一枚の自己主張が強くなりすぎる。あえて冒険をしたり、凡作をすべり込ませたり。
ほんとうはA作、そしてB作を見せたい。しか~し、これを効果的に見せるためには「つなぎ」が必要だというフォトグラファーの直観。
境界例はそういう作品を指している。
そのあたりに、じつは「写真の奥義」があったりするのかもしれない(^^♪