<橋の下にいる二匹の野良ネコ>
このあいだ、フジの645判を手にして、試し撮りをしたときのこと。
ちょっとあわてていたこともあって、わたしはピントを合わせるのを忘れて、パチパチと撮影し、100mばかり歩いてクルマにもどり、ピントを合わせていなかったことに気づき、急いでまた花が乱れ咲く街角へ引き返し、撮影しなおす・・・という経験をした(^^;)
フジの645判とは、父親から譲られたこれ。
正確な名称は、フジ GS645Sプロフェッショナル。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~takojin/gs645s.htm
発売年度は1984年である。フレームはダイキャストだが、外装はプラスチックで、安っぽいけれど、その分、小型軽量となっている。おそらく、山歩きなどする人が、広大な山の風景を撮るために使うものであったのだろう。山歩きはしない父親が、84年か85年に買って数回、コスモスやサクラを撮ったくらいで、ながらく寝かせてあったのを、譲ってもらった。
普通にもってかまえると、タテ位置のフレームとなるから、ハーフサイズのカメラと似ている。考えてみると、写真館あたりでさかんに使われた6×9判の半分・・・そしてセミ判と呼ばれ、わたしはかつてペンタックスの645初代機を風景撮影に愛用していた。220ならば、30枚も撮れる「お徳用」なのであ~る(^-^)
ところがこのところ久しくレンジファインダー機と縁がなかったせいか、ピントを合わせず、シャッターを押し、そのことに気がつかなかった。とんだ失敗! 失敗!
なぜなら・・・レンジファインダーは素通しの窓みたいなものだから、のぞけばいつだってピントは合っている(笑)。
そして、あることに気がついた。
「なんだ、レンジファインダー機のファインダーは、少しも“美しくない”じゃないか」と。
最近出番の多いローライやニコンF3と較べて、そう考える。
ローライ(あるいはハッセルブラッド)のウエストレベルファインダーは、そのスクリーンが映し出す外界は、それ自体なんとも輝かしく誘惑的で、カメラをもった人を“その気”にさせる。
肉眼で眺めたのとは違って、ピントが合ったところ、合わないところをたちどころに判別できる。逆光時の光のにじみ、なんともいえないデリケートな立体感、黒々とした影の深さ等が写欲をかきたて、「きっと、きっとすばらしい写真が撮れる!」とささやきかけるかのようなのである(^_^)/~
ニコンF3でも、そのファインダーは、いまどきのデジタル一眼のファインダーとは別次元の美しさである。むろん、視野率100%、大きくキレのよいこのファインダースクリーンを見たあとで、たとえば、D7000のファインダーを見ると、ほんとうにがっかりする。
まあ、オートフォーカスなので、ピントはカメラが合わせてくれるから実用上支障はないというコンセプトなのだろうが、ニコンのFマウントは、古いレンズを装着することができるから、マニュアルレンズを使って写真を撮ろうとすると、ファインダースクリーンの性能の差が歴然とする。
人はいつ、どんなとき「写真を撮りたい」と欲望するのだろう。
動機は人さまざまだから、なかなか一概にこうだとは、決めてかかれないけれど、わたしはファインダー像の美しさに影響されるタイプなのだろう。
だから、ソニーのNEX7だろうが、オリンパスのOM-Dだろうが、EVF(エレクトリック・ビュー・ファインダー)はいまの精度では到底使う気にはなれない。
・・・というわけで、ファンダー像の美しいモデルの出番が多くなる。
どうも、そういった因果関係があるようである。
写欲をそそり、かきたてるもの――主観に左右される微妙な問題のようでいて、ある種の人の場合、カメラの外観デザイン、取り回しのよさとならんで、案外これが決定的なファクターとなるのではあるまいか。
<近所の雌ネコに誘惑されのぼせあがっているテンちゃん(~o~)>
※添付写真はフジフィルムX10とリコーCX6による画像です。
このあいだ、フジの645判を手にして、試し撮りをしたときのこと。
ちょっとあわてていたこともあって、わたしはピントを合わせるのを忘れて、パチパチと撮影し、100mばかり歩いてクルマにもどり、ピントを合わせていなかったことに気づき、急いでまた花が乱れ咲く街角へ引き返し、撮影しなおす・・・という経験をした(^^;)
フジの645判とは、父親から譲られたこれ。
正確な名称は、フジ GS645Sプロフェッショナル。
http://www.ceres.dti.ne.jp/~takojin/gs645s.htm
発売年度は1984年である。フレームはダイキャストだが、外装はプラスチックで、安っぽいけれど、その分、小型軽量となっている。おそらく、山歩きなどする人が、広大な山の風景を撮るために使うものであったのだろう。山歩きはしない父親が、84年か85年に買って数回、コスモスやサクラを撮ったくらいで、ながらく寝かせてあったのを、譲ってもらった。
普通にもってかまえると、タテ位置のフレームとなるから、ハーフサイズのカメラと似ている。考えてみると、写真館あたりでさかんに使われた6×9判の半分・・・そしてセミ判と呼ばれ、わたしはかつてペンタックスの645初代機を風景撮影に愛用していた。220ならば、30枚も撮れる「お徳用」なのであ~る(^-^)
ところがこのところ久しくレンジファインダー機と縁がなかったせいか、ピントを合わせず、シャッターを押し、そのことに気がつかなかった。とんだ失敗! 失敗!
なぜなら・・・レンジファインダーは素通しの窓みたいなものだから、のぞけばいつだってピントは合っている(笑)。
そして、あることに気がついた。
「なんだ、レンジファインダー機のファインダーは、少しも“美しくない”じゃないか」と。
最近出番の多いローライやニコンF3と較べて、そう考える。
ローライ(あるいはハッセルブラッド)のウエストレベルファインダーは、そのスクリーンが映し出す外界は、それ自体なんとも輝かしく誘惑的で、カメラをもった人を“その気”にさせる。
肉眼で眺めたのとは違って、ピントが合ったところ、合わないところをたちどころに判別できる。逆光時の光のにじみ、なんともいえないデリケートな立体感、黒々とした影の深さ等が写欲をかきたて、「きっと、きっとすばらしい写真が撮れる!」とささやきかけるかのようなのである(^_^)/~
ニコンF3でも、そのファインダーは、いまどきのデジタル一眼のファインダーとは別次元の美しさである。むろん、視野率100%、大きくキレのよいこのファインダースクリーンを見たあとで、たとえば、D7000のファインダーを見ると、ほんとうにがっかりする。
まあ、オートフォーカスなので、ピントはカメラが合わせてくれるから実用上支障はないというコンセプトなのだろうが、ニコンのFマウントは、古いレンズを装着することができるから、マニュアルレンズを使って写真を撮ろうとすると、ファインダースクリーンの性能の差が歴然とする。
人はいつ、どんなとき「写真を撮りたい」と欲望するのだろう。
動機は人さまざまだから、なかなか一概にこうだとは、決めてかかれないけれど、わたしはファインダー像の美しさに影響されるタイプなのだろう。
だから、ソニーのNEX7だろうが、オリンパスのOM-Dだろうが、EVF(エレクトリック・ビュー・ファインダー)はいまの精度では到底使う気にはなれない。
・・・というわけで、ファンダー像の美しいモデルの出番が多くなる。
どうも、そういった因果関係があるようである。
写欲をそそり、かきたてるもの――主観に左右される微妙な問題のようでいて、ある種の人の場合、カメラの外観デザイン、取り回しのよさとならんで、案外これが決定的なファクターとなるのではあるまいか。
<近所の雌ネコに誘惑されのぼせあがっているテンちゃん(~o~)>
※添付写真はフジフィルムX10とリコーCX6による画像です。