はてさて、今日はレビューではなく、本そのもののお話をさせていただく。
これはわたしめにとっては、皆さんがよくお書きになっている「私生活の暴露記事」とほぼ同じものであ~る(ノω`*)
ええと、フランツ・カフカが好きなので、池内紀さんが編訳している岩波文庫が“愛読書”といえるレベル。
いつでも気が向いたとき手に取れる範囲に、短篇集、寓話集が2セット(つまり4冊)置いてある。
20世紀文学のうち、プルーストもジョイスも苦手。
まあ、フォークナーやラテンアメリカ文学なんかも、手許にあるだけでほとんど読まないから苦手の部類に入るだろうにゃ(。-ω-)
このあいだ蔵書の一部を掻きまわしたとき、こういう2冊が出てきた(トップの画像)。
池内紀さんは、友人にいわせると“もう古い”という。
カフカが残した草稿の研究が、本国のドイツで新たにすすみ、“史的批判版”というのが、光文社古典新訳文庫から、丘沢静也さんの新訳で発売されたからだ。わたしの場合も、それが2冊ばかり手許にある。
カフカの作家像が、“史的批判版”が出たことでゆらいでいる。
しかし、・・・わたしは池内訳で不都合は感じていないので、いまでも池内さんのものを愛読している。
「ちいさなカフカ」
「カフカ事典」
・・・このほか、
「カフカのかなたへ」
「カフカの書き方」
「となりのカフカ」
と、池内さんはカフカものによって、一時代を築いた人。エッセイストとしての著作も、過去に愉しく読ませてもらっている。
というわけで、カフカへの関心が、わたし的には復活しつつあ~る(^ε^) まあどーでもいいことといえばいえるけど。
つぎに澁澤龍彦さん。
澁澤さんの本が近くのブックオフにならんでいた。手許にないものをいくつか買い、自宅の本棚も物色。
なかでも「高丘親王航海記」は敬愛している幻想小説のサイコーの逸品である。むろんほかにも愛読したといえるエッセイが数冊ある。澁澤さんは一度読んだ本は、二度と忘れないという博覧強記の読書人で、マルキ・ド・サドの紹介者として知られ、フランス語がお得意。そして独特なフェティシズムの持主。読んでいると、いつのまにか影響を受けてしまう。
そういえば、現存の小説家で、小川洋子さんを読んでみたくなって、このおよそ1か月のあいだに、10冊ばかり買いそろえた。
村上春樹さんとならんで、海外での評価が何となく気になっている。
あくまで“何となく”なので、このさきどこまで読めるかはわからない。
さらに、こんな本がベッドの脇に鎮座している。
一つは養老孟司センセイの「臨床読書日記」で、文庫本の刊行は2001年だが、雑誌連載は1993~96年だそうである。驚嘆に値する、いつもの率直さが身上で、「他人が書いた本」を取り上げて、ピストルをぶっ放すようなコラムに仕上げてある♪
その下はトルーマン・カポーティの「誕生日の子どもたち」(村上春樹訳、文春文庫)。
この2冊、たまたま高崎市のブックオフの棚にあったというだけで、相互に何ら関連はない。
わたしの関心の方向が、毎日のように流動している。
一週間に3回か4回は本屋に出かけるので、蔵書はどんどんふえる、ふえる↑
そしてちょこちょこと、腹が減ったネズミみたいに本を齧っている、恥ずかしながら。“濫読”はそのまま“乱読”である。ひと口だけのつもりで齧ったら、そこからずぶずぶとのめり込むことはよくある。
でもねぇ、困ったことに寄る年並というのか、読書のスピードは確実に遅くなっているなあ(^^;;)。
現在まとまったものとしては、スタインベックの「怒りの葡萄」(ハヤカワ文庫)が進行中なのだけれど、そのあいまに、いろいろとつまみ食いし、食べ散らかしているのが正直な話。
この記事が、わたしの落ち着きのなさをそのまま反映している・・・といえるだろうにゃハハハ。