二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

内田樹「街場の文体論」その他2冊を読む

2018年10月13日 | 哲学・思想・宗教
  (「日本人とユダヤ人」リメイク版。角川oneテーマ21)


レビューはパスしてしまおうかとかんがえてはみたけど、
最近よみおえたこれら3冊について、簡単に感想をまとめておこうという気になった。


■山本七平「日本人とユダヤ人」角川新書(oneテーマ21シリーズ)角川書店

わたしが高校生のころ、大ベストセラーとなった一冊。
親しい友人が「おもしろいからぜひおまえも読め!」といって、貸してくれた。
つまり、元来は1970年刊行、それがリメイクされているのを目にとめたのだ。

現在でもはやっているけど、70年代にも流行があって、本書が「日本人論」が一世を風靡するきっけとなったことはよく覚えている。
山本さんは父親とほぼ同世代。戦争に従軍した経験をもっている。
著者のイザヤ・ベンダサンとは何者か!?

結局は山本さんの著書ということに落ちついたようである。
角川新書として2004年に復刊している。
わたしからみると、「わかるところ、わからないところ」が、マダラ紋様となって、ページをうめ尽くしているといったあたりが正直な感想。

ユダヤ人と対比して、日本人を「日本教」の教徒としているあたりはワクワクするおもしろさが紙面から立ち上がってくる。
日本人は無神論でも、無宗教なのでもない、日本教という一種の宗教の信者。キーワードは「人間」「人間らしさ」だというのは、非常に興味深い見解だと、あらためてかんがえさせられた。

ユダヤ人とユダヤ教の関係について、精度の高いシビアな指摘がいくつかなされている。
ユダヤ人や一神教について説いた教科書。そのつもりでわたしは読んだ♪
山本さんは、その後“保守の論客”として多くの著書を刊行し、高い評価をうけているようである。
「『空気』の研究」その他、文庫になった本が何冊か手許にあるので、いずれ、それらも目を通しておこう。

評価:☆☆☆☆



■内田樹「街場の文体論」文春文庫

う~む、最後の授業なのか(=_=)
「言語にとって愛とは何か?」
「『言葉の檻』から『鉱脈へ』」
「世界性と翻訳について」
こいった講義をじつに興味深くわたしも読ませていただいた。

内田樹さんは、フッサールの現象学とハイデガーの『存在と時間』から出発したE・レヴィナスの徒なのである。
レヴィナス的な世界観が、この人の根底に横たわっており、それが内田さんの思考回路の方向性を決定づけているのは明らかであろう。

《レヴィナスの最重要の哲学的主題のひとつが、「なぜ人は外部から到来する意味不明の言葉に聴き従うことができるのか?」だということを知りました。それはレヴィナスにとっては一神教信仰を基礎づけるための基幹的な問いであったわけです》(本書239ページ)
うーむ、む。
ところが、困ったことにわたしはレヴィナスをまったく知らない。
そういう意味では、肝心要のところで隔靴掻痒の思いをいささか拭いきれなかった。
養老孟司さんもそうだが、いままで常識として通用していた日本人のものの考え方を疑い、ひっくり返そうとしているのが、読者の興味をつよく刺激してやまない。

最後の授業だったせいか、いつも以上の熱気、盛り上がりが感じられる。これは加筆修正がくわわった本なので、筆が走っている、といったらいいか(?_?)
内田さんの著作にはつねに読者の像が、はっきり浮かんでいる。きみたちはどうかんがえるかと、頭の隅でその像がうごめいている。それに対し、レヴィナスの徒たる内田さんが、ことばの矢を放つ!

その矢が読者の心臓を射抜く。
こういう人はある意味“熱血教師”の風貌を備えているのだ。
最後の授業が終った瞬間、まるで演奏会場のような拍手が鳴りやまなかったことだろう。こうして本で読むのと、肉体からことばを絞り出すように語った、その場に聴講生としていたのとでは、体験の深さに違いがある。

それは生のライブをいままさにそれがうまれつつある会場にいて聴くのと、CD化された音楽を聴く違いに相当する。
そして読みおえたいま、内田さんが、文学者ではなく、思想家により近い存在であることをかんがえずにはいられない。
難解で知られるレヴィナスも、こういう人の手にかかると、いくらかわかりやすくなるだろう。
内田さんの愛読者なら、翻訳の仕事も無視できないはず。
まあ、わたしがそこまで歩いていけるかどうかは別だけれど(^^;)

評価:☆☆☆☆



■内田樹「もういちど村上春樹にご用心」文春文庫

わたしは村上春樹が「読めない人」である。読んでいないのだから、当然評価もへったくれもない。
二度三度、読みかけては“撃退”されてしまう。どーゆーわけか、村上文学とは周波数があわない。
友人たちから「いいから黙って読んでみろ」と、何度かすすめられた。
ところが、何をどういいたいのか、読者をどこへつれていこうとしているのか、
さっぱりわからない。
村上さんの小説には、変な表現かも知れないが、大人になりそこねた「かまとと人間」ばかりがぞろぞろ登場する(^^;)
ちなみにわたしはサリンジャーもダメ。

記憶の糸をたぐり寄せてみると、短編をいくつか(ほんの2-3編)は読んでいるし、雑誌に掲載されたインタビューなども読んでいるはず。
ベストセラー入りした長編小説に取りかかったこともある。
だが、10ページも読むと、読者としてのわたしが、なんというか・・・、浮き足だってしまうのだ。
反骨精神があるとか、反時代性を気取っているとかではなく、わたしはそもそも「現代の文学」が苦手な読書人(=_=)

ただ何となく、あまたいる現代文学の書き手の中で、村上春樹は気になる作家でありつづけた。だから、本は10冊くらい手許にある。
・・・というわけで、内田さんに教えてもらうつもりで本書を手にした。
しかしなあ、内田さん、村上春樹の世界って、そんなに単純なくくりで処理していいの!?

そういう不満が最後のページを読みおえるまでくすぶっていた。
とはいえ、世界性をもつといわれる村上文学に対するいくつかのヒントは、本書からいただくことができた。
入口がわかれば、その内部に入り込んで、探索することができる。
「よしよし、今度こそ、村上春樹を読むぞー」
そんな気分にしてくれたことは感謝せざるをえない。それだけの“効用”はあったのだ。

書店を散歩しながら、これまで気にならなかった村上春樹さんの本が、少し気になってきた
――というわけで、本書を読んだあと、村上春樹の本を7-8冊みつくろって買ってきた。
いやー、デビューしてもうそろそろ40年、たくさんの長編、短編、エッセイを書いてきたのだ。
果たしてそれらが、わたしに“読める”ようになったか、どうか?
検証はこれから、これからということであ~る(゚ペ)

評価:☆☆☆



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