昨年、街歩きをしながら、街角のスナップを撮りはじめたころから、上田市はわたしの意識の端に存在していた。
その上田市散策を、昨日ようやく果たすことができた。
上田は、群馬県人のわたしの眼から見て、なかなかすばらしい町である。
町づくりが、うまくいっているのだろう。伝統と革新のバランス。清濁の両者を、しっかりと抱え込んで、活気のある地域の中核都市として、その役割を十分維持しえている。むろん、住人として暮らすということになったら、問題点があれこれと噴出してくるのだろうが、荒廃がすすむ群馬県の小都市とは、はっきりと違う。群馬の県政・市政が悪いのか、東京までの‘距離の問題’、あるいは‘観光資源’の有無なのか、ほかに原因があるのか、平日の日中であるにもかかわらず、町の中には、ある種の活力があった。 . . . 本文を読む
「こころをふるわす街角」というものが存在する・・・とわたしは考えている。それを、ことばで、うまく定義することはむずかしい。
ことばにはならないというか、定義したつぎの瞬間、水が手のひらからこぼれて消えていくように、ことばが消えていく。
街には「こと」や「もの」があふれている。今日は1時間100円というパーキングにクルマをあずけて、前橋市の中心街を、ちょうど1時間、歩いてきた。お天気は、明るい曇り。かなり肌寒く、買ってまもないマフラーを首に巻き、LX5とニコンD7000(24mmF2.8レンズ)をさげていった。
LX5ではカラー、D7000ではモノクローム。
こんなふうに撮りわけるのは、普段はめったにやらない(^^;)
眼の生理のようなものが違うから、その切り替えが忙しい。
モノクロから2枚、カラーから2枚、この日記にピックアップしておこう。
前橋市の繁華街のはずだが、飲屋街は、店の大部分が撤退してしまって、40代の三毛ネコさんがスナックをハシゴしていたころの賑わいはない。
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一昨日、仕事帰りにふと立ち寄った、M市富士見町の十二山というところで、紅葉のラストシーンに、どんぴしゃ! と間に合った。
近隣でだけ知られた、地味なハイキングコースで、赤城山麓から、100mばかり突き出した小高い丘。富士見と名がつく地名は全国に散在するが、それは文字通り「富士山が見える場所」の意味がある。
気象条件しだいでは、このやや左方向に、富士山が見えてもおかしくないが、わたしは残念なことに、まだ、いっぺんもそういう幸運にめぐまれていない(^^;)いま、ここに写っているのは、手前が前橋の市街地、そのさきは、荒船山や秩父方面の連山。雨雲がのしかかるように、上空に拡がっていた。
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わたしは現在、mixiアルバムに196個のアルバムを置いている。
さっき、ほかにすること、したいことがなかったので、それらのアルバムを振り返りながらざっと見晴るかしてみた。
すると、劇的な変化が起こったのは、2010年10月14日であったことがわかる。この日、何があったのか?
何てことはない。1台のカメラが、わたしの手許にやってきたのである。
それまでの主力機は、ニコンD70
ニコンD80
キヤノンIXY900is
・・・の3台。これで、チョウや甲虫などをもっぱら撮ってきた。
そこにくわわった、LUMIX LX5という、レンズ交換のできない、コンパクトなデジタルカメラ。アマチュアなので、40年という長い写歴の中で、ヌード写真をのぞく写真を、いろいろと撮ってはきたけれど、2010年10月14日の数日前までは、昆虫写真の撮影に夢中だったのである。
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まもなくmixi4周年を迎える(gooブログも)。
昨年のいまごろ、つまり12月2日ごろ、何をしていたんだろう?
じゃ、一昨年は?
そう考えて、mixiをさかのぼってみた。
2010年12月3日 醤油屋「岡直三郎商店」mixi日記
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1632884599&owner_id=4279073
そうだ、高崎の醤油屋さん「ヒキソーイチ」さんへお邪魔し、キレイなお姉さんに案内されて、文化財といえるような古いボイラーを撮影させていただき、地元群馬の醤油を買って帰ったのだ。そのとき、2本の種類のことなる醤油を買ってあって、まだ使用中。
この年10月にはじめた「街撮り」に、勢いがつきはじめていたころ(笑)。
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それまでは、ほとんど昆虫写真しか撮らなかった三毛ネコさんが、昨年の10月から散歩写真をはじめた。
もう撮り尽くしたとは、とてもいえないけれど、桐生や伊勢崎、富岡、足利、深谷、行田、秩父など、た~くさんのアルバムが生まれてきた。
わたしのこの動機がどこいらにあるのか、本人にはよくわかってはいない(^^;)
街撮りといったり、散歩写真といったり、‘いまは昔’といったり、表現はそのつど変えてあるけれど、コンセプチュアルなアルバムというのではない。
だから「眼の散歩」と、書いてみた。
花や建築物や人物。
その街角が、生きて活動している鼓動のようなものに、耳をすましながら、この‘目玉’は、被写体をもとめて歩きまわる。
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