正式には天童山景徳院といいます。武田勝頼は天正10年(1582年)3月11日天目山を目指しましたが、この田野で織田・徳川の大軍に囲まれて悲惨な最後をとげました。これにより武田家は滅亡しました。天正16年(1588年)に徳川家康が冥福を祈るため建立しました。
7堂伽藍の立派な寺でしたが二度の大火で大部分は燃失しました。当時の建物は山門のみです。
山門近くに自刃した三箇の生害石があり、勝頼公(37歳)夫人(19歳)信勝公(16歳)の墓が並び、将兵や侍女合わせて50名の墓があります。
7堂伽藍の立派な寺でしたが二度の大火で大部分は燃失しました。当時の建物は山門のみです。
山門近くに自刃した三箇の生害石があり、勝頼公(37歳)夫人(19歳)信勝公(16歳)の墓が並び、将兵や侍女合わせて50名の墓があります。