備中松山城は標高約400mの臥牛山(がぎゅうざん)の南峰の小松山にある山城です。秋庭重信が仁治元年(1240)に備中有漢郷(現・高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を築きました。元弘年間(1331-1333)に高橋宗康が小松山まで城を拡張したようです。
上野氏、庄氏、三村氏と城主は変わりました。三村家親は宇喜多直家によって暗殺されてしまいます。元亀元年(1570)家親の子・元親は直家との戦の時、敵と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を奪われてしまいます。元亀2年(1571)毛利氏の助けをかりて松山城を奪還しました。
天正2年(1574)、元親は毛利氏から離反し織田信長と手を結びました。翌年にかけて、備中兵乱と呼ばれる三村氏と毛利氏の争いが続きました。そして松山城は毛利の小早川隆景により落され、元親は自害し、毛利氏の所領となりました。
慶長4年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏は敗れ、徳川幕府は小堀正次・政一(遠州)を城番にしました。元和3年(1617)、池田長幸が6万3千石で入府しましたが、寛永18年(1641)、2代長常に子がなく没したため改易になりました。
寛永19年(1642)、水谷勝隆(みずのや かつたか)が5万石で入封しました。備中国の3分の2を領有し、備中松山藩の基礎を築きました。2代勝宗は天和元年(1681)から3年間かけて天守を築いたり修復したりして城郭は現在の姿となりました。
しかし、3代勝美は子なく没し、養子となった勝晴もあとを追うように元禄6年(1693)に早世したため、水谷家は断絶しました。水谷家断絶後、忠臣蔵で有名な赤穂藩主の浅野長矩が城の受取りにあたり、家老の大石良雄は城番を務めました。
元禄8年(1695)、安藤重博が6万5千石で入封し、正徳元年(1711)には石川総慶が6万石で入封しました。その後、延享元年(1744)に板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続きました。
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上野氏、庄氏、三村氏と城主は変わりました。三村家親は宇喜多直家によって暗殺されてしまいます。元亀元年(1570)家親の子・元親は直家との戦の時、敵と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を奪われてしまいます。元亀2年(1571)毛利氏の助けをかりて松山城を奪還しました。
天正2年(1574)、元親は毛利氏から離反し織田信長と手を結びました。翌年にかけて、備中兵乱と呼ばれる三村氏と毛利氏の争いが続きました。そして松山城は毛利の小早川隆景により落され、元親は自害し、毛利氏の所領となりました。
慶長4年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍についた毛利氏は敗れ、徳川幕府は小堀正次・政一(遠州)を城番にしました。元和3年(1617)、池田長幸が6万3千石で入府しましたが、寛永18年(1641)、2代長常に子がなく没したため改易になりました。
寛永19年(1642)、水谷勝隆(みずのや かつたか)が5万石で入封しました。備中国の3分の2を領有し、備中松山藩の基礎を築きました。2代勝宗は天和元年(1681)から3年間かけて天守を築いたり修復したりして城郭は現在の姿となりました。
しかし、3代勝美は子なく没し、養子となった勝晴もあとを追うように元禄6年(1693)に早世したため、水谷家は断絶しました。水谷家断絶後、忠臣蔵で有名な赤穂藩主の浅野長矩が城の受取りにあたり、家老の大石良雄は城番を務めました。
元禄8年(1695)、安藤重博が6万5千石で入封し、正徳元年(1711)には石川総慶が6万石で入封しました。その後、延享元年(1744)に板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続きました。
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