旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

科野大宮社

2007年07月04日 | 旅 歴史
 上田市常田2丁目にある科野大宮社です。延喜式以前からこの地にある古い神社で、地元の人からはおおみやさんと親しみを込めて呼ばれています。崇神天皇の御代、建五百建命を科野国(信濃国)の国造に任命しました。上田に国府を置き、国魂の神である科野大宮社を創祀して住民の安全を祈願したのです。信濃国総社でもあったようです。天慶元年(938)平将門の乱が起こりました。平定するために送られた平貞盛の軍と戦になりました。国分寺と千曲常田河原が戦場になり、信濃国分寺諸堂と科野大宮社の社殿楼門神庫は焼失してしまいました。付近の民家数百戸も焼け出されたそうです。
 天正13年(1585)8月、徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世らを将とし、信濃・甲斐などの軍勢もあわせ総勢7千の大軍を真田昌幸の居城上田城攻撃に向かわせました。これが第一次上田合戦です。
 徳川家康は羽柴秀吉と対立している時でした。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いがあり北条氏と組む必要がありました。北条との講和の条件に、真田昌幸が治めていた沼田を北条に渡す一項があったのです。
 この時、真田昌幸は徳川家に臣従していましたが「沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。」沼田の引渡しを拒絶したのです。
 昌幸の計略で徳川軍を城下に入れ、町屋に火を放ったのです。折からの風にあおられ、火は徳川軍を襲いました。柵を随所に設けてあったので動きが取れない大軍に向かって鉄砲が一斉に放たれ総崩れとなり撤退することになったのです。この一帯はその戦いの激戦地になり再び焼失したのです。
 御神木は江戸時代の旅行案内絵図で上田を描いた場面には必ず登場したそうです。現在の科野大宮社の本殿は万延元年(1860)藩主松平忠礼が拝殿とともに再建したものだそうです。
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