京都府京都市東山区妙法院前側町に妙法院があります。
妙法院は天台宗に属する寺院で、天台三門跡(三千院の梶井門跡、青連院門跡)のひとつに数えあげられている名刹です。近世には方広寺(大仏)や新日吉社、蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、蓮華王院は現在も妙法院所管の仏堂となっています。
妙法院という名称は、平安後期、比叡山西塔本覚院の快修がこの別号で呼称されたことに始まります。後白河上皇の護持僧昌雲(しょううん)が祈祷の験により、新日吉(いまひえ)御所の地を与えられ創建したという説と、最澄が創建したという説とがあります。
暦応3年(1340)佐々木道誉によって攻撃され灰燼に帰しました。道誉の嫡男秀綱が妙法院のモミジを折ったことから僧侶と争いになり、道誉・秀綱親子が300騎を率いてことごとく焼き払ったそうです。その後、復興した後に応仁の乱に巻き込まれ荒廃しました。豊臣秀吉が方広寺の大仏殿を建立したとき大仏の経堂として再興しました。
秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、当時の日本仏教の八宗(天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向)の僧を集めた千僧供養を大仏経堂で行いました。この経堂は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現在の妙法院庫裏だといわれています。
寺領も1600石となり江戸時代には新日吉神社、蓮華王院、方広寺なども管理し繁栄しました。天明の大火の際には光格天皇の皇后がここに避難したそうです。明治に入り、神仏分離令が出され、寺地は20分の1まで削られてしまったそうです。
庫裏は桃山期の豪快な建築で国宝に指定されています。大書院は東福門院の旧殿を移築したものといわれ、玄関とともに国の重要文化財に指定されています。幕末に七卿落ちが行われた宸殿、小堀遠州が作庭したといわれる庭園もあります。所蔵するポルトガル国印度副王信書は国宝に指定されています。
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