温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

幕別町 黒田温泉跡

2014年03月17日 | 北海道
 

幕別町札内の南側を流れる途別川の川原には、かつて温泉旅館で使われていた源泉がいまだに自噴している箇所があるらしいので、どんなところか実際に行ってみることにしました。札内駅から真南へまっすぐ進むと、途別川に架かる吐月橋へと至りますので、まずはこの橋を渡っちゃいます。


 
橋を渡たると、川と並行に左へ伸びる路地がありますので、この路地へ左折します。曲がって50メートルほど進んだ先の左手(川原側)に、今回の目的地である「黒田温泉跡」の説明看板が立てられていました。



(画像をクリックすると拡大)
幕別町が建てたこの説明板を抜粋してみました。

大正元年(1912年)日新高台で牧場の経営をしていた黒田林平が、吐月橋を渡りきった日新坂の登り口付近で温泉旅館を経営した。「旅の歌人」若山牧水が大正15年(1926年)42才の時、奥さんと5日間滞在した。牧水直筆の歌碑「幾山河 越えさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」は昭和12年(1937年)の建設である。摂氏20℃から21℃の冷泉を、付近一帯の山野に自生している木を燃料として沸かした。花見時には、新田ベニヤや帯広からの客で賑わったが、十勝川や糠平温泉が開発されるにしたがって客足は減り、昭和10年代後半に廃業した。

なるほど、温泉名の黒田とは創業者の名前に由来しているのかぁ。若山牧水も泊まったお宿でありながら、既に戦前の時点で廃業しちゃったんですね。現在の温泉業界ではできるだけ人の手が加えられていない掛け流しのお湯に高い評価がなされる傾向がありますが、これって今に始まった話ではなく、戦前でも薪で沸かした鉱泉より、湧いた段階で既に熱い温泉の方が好まれていたんでしょう。尤も、薪で沸かす鉱泉は供給量に限界がありますから、立派なボイラーが無かった当時の黒田温泉は、湧出量も湯温度も優っている十勝川や糠平に対して、魅力も競争力も劣ってしまったのでしょうね。



さて、その看板のところから川原の奥へと伸びる未舗装路を進んでいきましょう。



100メートルも進まないうちに、小径は途別川の土手の裏手に突き当たるのですが、そこにはちょっとした広場があり、噂通りに地面から突き出ている管から鉱泉が勢い良く空へ向かって噴き出していました。



自噴箇所へ近づいてみましょう。かなり勢い良く鉱泉が自噴しているんですね。画像では伝わりませんが、音を立ててドバドバ湧出していました。脇にはバケツが置かれていますが、この鉱泉を何らかの目的で使っている人がいるのかな?



鉱泉の温度を測ってみますと、説明看板で記されていた通りに20.1℃という数値が表示されました。鉱泉の色自体は無色透明ですが、そのまわりは黄土色に染まっています。試しに鉱泉を口に含んでみますと、口腔内にはっきりと金気味が残り、また弱い炭酸味を伴う重炭酸土類泉のような味が感じられました。十勝平野の温泉といえばモール泉の宝庫であり、この黒田温泉跡の近所にある幕別温泉の各施設でもモール泉(もしくはそれに近いタイプ)のお湯をボーリングによって得ていますが、そうした環境にあって、この手の鉱泉が自噴しているとは意外であり、異色な存在ではないかと思われます。
現在営業している幕別温泉の各施設では、現在こそ深度掘削によって高温のモール泉を揚湯していますが、かつてはこの鉱泉のようなぬるい鉱泉を加温して客に供用していたんだそうです。また戦後になって地元の方が温泉を掘り当てるべくこの界隈をボーリングしたこともあっただそうです。そうした諸々の事情から推測するに、この自噴鉱泉は、戦前の黒田温泉のものではなくて、後年になって温泉を求めるべくボーリングされた試掘井がそのまんま放置されているんでしょうね。実際の経緯の真実はともかく、いろんな想像を掻き立ててくれる面白い自噴鉱泉でした。


北海道中川郡幕別町依田  地図

立入は自由ですが、入浴できません

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コメント (2)
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