紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

ふたたび奥山貴宏さんのこと

2005-08-16 10:18:57 | 13・本・映画・演劇・音楽など
先日、このBlogに奥山さんのことを書いた。

その時にも書いたTV・ドキュメンタリー「オレを覚えていてほしい」が再放映されるそうである。

★ 8月28日(日)26時 (翌午前2時)~27時31分  NHK総合

   詳細は、奥山さんのBlog「32歳ガン漂流エヴォリューション」参照

あれから、私は奥山さんの本を二冊読んだ。(写真)
まだあと二冊読んでから、感じたことを書こうと思う。

今日書きたいのは、奥山さんのテレビを見て、『週刊新潮』(8月11・18日夏季特大号)に連載された「人間自身」というコラムの No.113「見られて死にたい」についてである。
著者は池田晶子さん。

私は今までこのBlogに、誰かの批判を書いたりするのは避けようと思っていた。
けれど、今回だけは、書こう。

池田さんの「見られて死にたい」は、全てを否定しているのだ。
奥山さん自身を。奥山さんの生き方を。奥山さんがブログを通じて発信した心の叫びを。その叫びを受け止めた人たちを。その人たちとの交流を。

 三十一歳で癌で亡くなった青年が、二年後に亡くなるまでの風変わりな闘病生活を、ドキュメンタリーで放映していた。
 何が風変わりかというと、その間の生活や心境の逐一を、ネットで広く報告するのである。私は知らないが最近では、ブログなる形式によって、人々は個人の日記ようのものを不特定多数の人に向け、発信するようになっているらしい。この人の試みもそのひとつなのだろう。
 そもそも私は、個人のあられもない内面を、得体も知れない誰かに吐露したいというその心性が、理解できない。気持ちが悪い。……後略。
        (『週刊新潮』(8月11・18日夏季特大号)「人間自身」より抜粋)

池田さんがどうしても、テレビのドキュメンタリー番組を見た時に感じた違和感を言葉にしたいなら、せめて奥山さんのブログ、著作に触れて全て理解し、その上で批判を構築するべきではなかったか。

実際にテレビで見た時と、本を読んだ後では、奥山さんの印象はかなり違っている。
テレビに映ることに慣れていない人は、テレもあるし、ふだん以上に自分というものをアピールしてしまうものである。本では、もっと淡々と日々の生活を書きつづっている。

「気持ちが悪い」(誰かを、何かを批評するのにこんなに理解しずらい、不愉快な言葉を使う人に出会うことも珍しい)と思って、近づくこともできなかったなら、何も見ないで通り過ぎればよかったではないか。

人が一生懸命に生きたことを批判する権利など、誰にもありはしない