今日、父上を介護しているSさんのBlogに、長々とコメントをさせて頂いた。
そして、書いているうちに、急に父を介護していた時のことを思い出したので、父のことを書きたい。
父の介護は、初めてのことだったので無我夢中で、いつも後手後手に回って、本当に混乱した。
その頃、母は元気だと思っていたため、母に頼り切りだったのもまずかった。
父がある時重い感染症で入院して、初めて母が軽い認知症におちいっていことと、母の持病が相当に悪くなっていたことを知った。
その日から、両親二人の介護で、仕事もできない、山も登れない、自分の家のことすら満足にできない2-3年の月日があった。けれど、その頃のことを書くと、相当長くなるので省く。
Sさんが1人で介護をしている父上を特養に入れようとしていることについて、かなり迷っているようなので、ここでは特別養護老人ホーム(特養)のことを書こうと思う。
姥捨て山・・という感じは、なんとなくわかる。私たちもそれに似たような気持ちは持ったことがあるような気がする。でも、実際は、姥捨て山ではなくて、そこでは介護の専門家が介護を担ってくれる。
初めて父のために特養の申し込みをした時、まだ母と私たち姉妹で、父の介護は何とかできていた。当時父は認知症で、介護度3だった。だから、どうしようか、すごく迷った。でも、申し込んだのは、その前、母が入院した時に、父の介護は私たち姉妹だけでは、手に負えないのがわかっていたからだ。
父は私たちに、身体介護をさせない。オムツを替えさせない。お風呂にも入らない。それでは人間らしい暮らしはできないので、全くお手上げだった。
あの頃は、あまりに大変で、父への愛情はどこかに吹っ飛んでしまったくらいだ。
父は母さえそばにいれば、だいじょうぶなのだけど、母も軽い認知症が出て、持病によっていつまた入院するかわからない。それで、迷った末、高井戸のY会にある特養に申し込みをした。
1年ちょっとで入れたのは、その時に新しい特養が開設したからだ。そうじゃなかったら、入るのはもう少し後になったと思う。
特養に入所できるという連絡がくる直前、父が10時間行方不明になるという事件があった。
父は徘徊があって、時々どこかへ行ってしまうのだ。近くの姉が、しじゅう両親の家に行ってくれたのだけど、24時間見ているわけにはいかない。
それでも、たいていは1ー2時間ほどで家にもどるのだけど、その時は冬の12月だというのに、薄いシャツ1枚で家を出たきり、いなくなってしまった。
見つかったのは、今でも奇跡だと思っている。ころんでケガをして、近くを通りかかった人が救急車を呼んでくれたのだ。もっと奇跡的だったのは、父が自分の家の電話番号をいえたこと。もう何にもわからなくなっていた父が、よく電話をいえたものだと、姉と一緒に感心したり、驚いたりした。
病院から連絡があったのは、夜の11時頃。
警察に連絡したり、姉と二人で車に乗って、あてもなく近くを何時間も探し続けていたが、冬だし、あんなに薄着では朝までもたずに死んでしまうだろうと思っていた。
けれど、父は軽いケガだけですんだ。その直後、4月に開設する特養ホームに入所できますという知らせがきた。申し込みをした時には、すごく迷ったけれど、その時には全く迷わなかった。これで父も私たちも救われたと思った。
(写真トップはY会の庭の池にいたカモ。ヒナが生まれると、患者も家族も入所者も看護婦さんもお医者様も、みんな一緒になって話しながら眺めていた。みんなの顔には知らず知らずのうちに笑みがわいて癒される時間だった。)
そして、書いているうちに、急に父を介護していた時のことを思い出したので、父のことを書きたい。
父の介護は、初めてのことだったので無我夢中で、いつも後手後手に回って、本当に混乱した。
その頃、母は元気だと思っていたため、母に頼り切りだったのもまずかった。
父がある時重い感染症で入院して、初めて母が軽い認知症におちいっていことと、母の持病が相当に悪くなっていたことを知った。
その日から、両親二人の介護で、仕事もできない、山も登れない、自分の家のことすら満足にできない2-3年の月日があった。けれど、その頃のことを書くと、相当長くなるので省く。
Sさんが1人で介護をしている父上を特養に入れようとしていることについて、かなり迷っているようなので、ここでは特別養護老人ホーム(特養)のことを書こうと思う。
姥捨て山・・という感じは、なんとなくわかる。私たちもそれに似たような気持ちは持ったことがあるような気がする。でも、実際は、姥捨て山ではなくて、そこでは介護の専門家が介護を担ってくれる。
初めて父のために特養の申し込みをした時、まだ母と私たち姉妹で、父の介護は何とかできていた。当時父は認知症で、介護度3だった。だから、どうしようか、すごく迷った。でも、申し込んだのは、その前、母が入院した時に、父の介護は私たち姉妹だけでは、手に負えないのがわかっていたからだ。
父は私たちに、身体介護をさせない。オムツを替えさせない。お風呂にも入らない。それでは人間らしい暮らしはできないので、全くお手上げだった。
あの頃は、あまりに大変で、父への愛情はどこかに吹っ飛んでしまったくらいだ。
父は母さえそばにいれば、だいじょうぶなのだけど、母も軽い認知症が出て、持病によっていつまた入院するかわからない。それで、迷った末、高井戸のY会にある特養に申し込みをした。
1年ちょっとで入れたのは、その時に新しい特養が開設したからだ。そうじゃなかったら、入るのはもう少し後になったと思う。
特養に入所できるという連絡がくる直前、父が10時間行方不明になるという事件があった。
父は徘徊があって、時々どこかへ行ってしまうのだ。近くの姉が、しじゅう両親の家に行ってくれたのだけど、24時間見ているわけにはいかない。
それでも、たいていは1ー2時間ほどで家にもどるのだけど、その時は冬の12月だというのに、薄いシャツ1枚で家を出たきり、いなくなってしまった。
見つかったのは、今でも奇跡だと思っている。ころんでケガをして、近くを通りかかった人が救急車を呼んでくれたのだ。もっと奇跡的だったのは、父が自分の家の電話番号をいえたこと。もう何にもわからなくなっていた父が、よく電話をいえたものだと、姉と一緒に感心したり、驚いたりした。
病院から連絡があったのは、夜の11時頃。
警察に連絡したり、姉と二人で車に乗って、あてもなく近くを何時間も探し続けていたが、冬だし、あんなに薄着では朝までもたずに死んでしまうだろうと思っていた。
けれど、父は軽いケガだけですんだ。その直後、4月に開設する特養ホームに入所できますという知らせがきた。申し込みをした時には、すごく迷ったけれど、その時には全く迷わなかった。これで父も私たちも救われたと思った。
(写真トップはY会の庭の池にいたカモ。ヒナが生まれると、患者も家族も入所者も看護婦さんもお医者様も、みんな一緒になって話しながら眺めていた。みんなの顔には知らず知らずのうちに笑みがわいて癒される時間だった。)