紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

むかしの杉並

2005-02-09 07:18:50 | 9・昔の風景
久我山駅の近くには、橋が三つあった。橋の下を線路が通っているのだけど、そのおかげで、今でも、久我山周辺には、踏切があまりなく、線路を渡るのに便利だ。

この写真は、私の家からは一番遠い銀蔵橋。遠いといっても、歩いてわずか7分ほどの距離だけど。
この橋を渡ると、向こう側は、森になっていた。
少し歩くと雑木林もたくさんあって、そこは子ども達にとって天国だった。



昔、杉並では、木登りもできた。
原っぱもあった。
道で遊んでいても、車にひかれる心配などなかった。
どこの馬場から馬が来ていたのかわからないが、たまに馬にのった人も通った。パカパカと足音がすると、窓に近寄って、わくわくしながら、見た。
道はじゃり道で、舗装道路に変わったのは、小学生になったか、ならないかの頃。
舗装道路になってからは、馬が通ることはなくなった。

銀蔵橋の向こうの森がなくなったのは、小学高学年の頃だろうか。
木が切られて、家がたくさん建ち並び、そこに私の友だちも引っ越してきて、仲良くなった。

(写真は近所の友だちをはさんで、右が姉。左が私)

23 コメント

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思い出を辿れて (anokobe)
2005-02-09 09:04:05
昨日に引き続いて、いい写真ですね。

こんなのを、残して置いてくださったお父様がいらしたこと。その愛情まで伝わります。

のどかで、私の住む奈良の端っこと少しも変わらない風景に出会えます。

すっかり変わった、東京なので、一層こういう記録でもって、思い出を手繰り寄せることができるのですね。

おかっぱ頭、子供の頃、みんなこうだったなぁ~~~なんて、私の子供の頃にもスリップ・・・
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Unknown (Unknown)
2005-02-09 09:05:17
anikobeでした。(m(。`。)m )
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anikobeさん (紅蓮)
2005-02-09 17:08:47
コメントありがとうございます。

この写真は、ステレオカメラといって、専用のメガネをして見ると、写真が立体的に見えるのです。人が前に、背景の木々は後ろにみえて、さらに臨場感がまします。



カメラがどんな形かは覚えてないけど、一時のはやりだったのかなんなのか、大きくなってからは、そんなカメラ見たことないです。
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懐かしい (真蘭)
2005-02-09 17:27:12
いい写真ですね。

久我山の駅前に流れている川は、神田川でしょ。先日久我山で集まりがあっていったのですが、駅が近代的に様変わりしていましたよ。
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ステレオカメラ (anikobe)
2005-02-09 19:11:04
何か聞いたことがあるような気がするのです。ひょっとしたら、博覧会か、何かのイベントだったか、見た記憶もあるのです。

あっ

書いているうちに思い出しました。

我が町の市立文化博物館の映像の部屋で、専用の眼鏡をかけるとスクリーンの映像が立体的になるのです。町の四季を映していました。

これと同じような仕組みが、紅連さんの子供の頃お家で使っていられたなんて、凄いなあと、今更ながら感心しています。
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国丸カンチャンのこと (多津雄)
2005-02-09 19:30:54
国丸カンチャンを御存知ないですか。東京外語大学を卒業した男ですが。
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真蘭さん (紅蓮)
2005-02-09 21:36:16
そう、そう。神田川の横に、久我山の駅はあります。

最近では、週に2-3回久我山に行くけど、車で行ってしまうので、駅が近代的になったのは、見たことないんです。うわさには聞いているけど。

一度見てみなきゃね。
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anikobeさん (紅蓮)
2005-02-09 21:40:13
ステレオカメラというのは、焦点をずらしてとって、右目と左目の焦点のずれを利用して、立体的に見えるようにしたものです。



あのスクリーンのも、ディズニーランドで見たことあるけど、家にあったのは、あのように大々的なのではなくて、レンズの少し前に(4cmほど)、二枚のネガフィルムを貼り付けた物をおいて、それを両方の目でみるのです。

なんて、なんかうまく説明できてないですね。これじゃわからにですよね。(笑)すみません。今度どうにかして再現できないか、考えてみます。
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う~ん?? (紅蓮)
2005-02-09 21:42:48
国丸カンチャン?????

多津雄ちゃん、私の知り合いでしょうか? それとも両親の? ちょっと聞いた限りでは、おぼえがないような気がするのだけど。
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同僚でした (多津雄)
2005-02-10 06:28:22
たしか、昭和14年生まれの同僚でした。東京外大で約8年かけてロシア語を学び、あのあたりでオレの名を知らないのは、もぐりだとうそぶいていました。

いまは音信が途絶えていますが。
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