紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

1・スイスへの旅立ち

2005-02-16 06:02:29 | 8・山と旅の思い出
二ヶ月間の子連れイギリス旅行から、4年後。
子ども達を連れて、再び海外の旅に出ることにした。
イギリスの旅のあと、あまりに疲れてしまい、しばらく飛行機に乗って、子どもを連れて、海外に行くことなど考えないようにしていた。

それが、なぜまた旅に出る決心をしたか・・。
25歳の頃、ヨーロッパ、アメリカを放浪していた頃知り合った、スイス人の友人、レミさん一族が所有する山荘をどうしてもの訪れたくなったからだ。

200年間も、ずっと一族で所有し、代々いろんな人が住んだ古い山の家がスイスの田舎にある、と聞いただけで、本が書けそうな気がした。
そうはいいつつ、その家を知った時から、何年もたつのに、ずっと行かないできた。いつでも行けると思うと、そんな遠くまで、なかなか行かないものだ。
ところが、古くて広い屋敷を維持するのが大変なので、手放すことを考えている。というのが風の便りに伝わってきた。

万が一、レミさん一族の手から離れたら、もう二度と私が訪れるチャンスがなくなる。
まだ所有しているうちに、何とかして訪ねさせてもらおう、と思った。

プランスモンにあるその山荘を訪れた後のことは、あまり考えていなかった。できれば、せっかくスイスに行くのだから、スイスアルプスを歩いてみたい。そう思ったものの、行程などは、ほとんどなにも決めないまま、行きの空港(チューリッヒ)と、帰りの空港(フランクフルト)だけ決めて、チケットをとり、小学3年の息子、1年の娘と一緒に旅に行くことを決めた。

ちょうど、その年の夏休み、良流娯さん母娘が、友人たちとドイツ旅行を計画しているのを知った。早く出発して、一緒にスイスを旅行しないかと話すと、すぐに行くという返事がかえった。それが、その後何回も一緒に海外にいった良流娯さん母娘との1回目の旅となった。

◆スイスの旅のBlog
1・スイスへの旅立ち 
2・ニューシャテルへ 
3・プランスモンの田舎の家
4・プランスモン・つづき
5・あこがれのスイスアルプス
6・ミューレン村
7・ルガノで過ごす
8・ドイツを旅する

花の館に

2005-02-15 22:02:10 | 1・作品紹介

私の5作目の本です。

 1991年5月

 絵・いせひでこ
 
 講談社(絶版)
 
 小学上級から


「この家にも、プチピエールさんにも、なにか秘密がありそう。見知らぬ老人、プチピエールさんからの招待で、いとこの正子ねえさんや朱理とスイスにきた千佳は、この旅行にかくされたなぞをさぐりはじめたが…。」


あとがきより抜粋 

「スイスは有名な観光国ですが、そのにぎわいからはずれたところに、ひっそりと、プランスモンの村はありました。村のかたすみに建つ、一軒の大きな白い家。スイスの友人一族が所有しているその「田舎の家」のことをはじめてきいた時から、わたしはなぜか、強く心ひかれるものを感じていました。二百年以上も前に建てられたという家。気が遠くなるほど長い時の流れは、その家に、いったいなにをきざみつけてきたのでしょうか。・・」


◆書評→ 「図書新聞」 現在白百合女子大・教授、石井直人さんの書評。ネタバレ含む。久しぶりに読み直してみたら、もっとスイスアルプスの山でも出してほしかった、というのを読んでビックリ。実際にアルプスには、取材旅行の時にいったのだけど、書くことは全く考えなかった。

◆この本に関するBlog→スイスへ取材旅行


御前山(1405m)に登ってきました!

2005-02-14 06:08:55 | 3・山の日記
きのうの天気予報は、くもり一時雪。
ところが、奥多摩駅をおりると、山には雪がうっすらとかぶっていた。どうやら、夜のうちに、すでに雪が降ったらしい。金曜日とはうってかわって、雪の山々に出迎えられた。
(下の写真:良流娯さん、娘、喜多村さん)

小河内ダムの堰堤を渡ったところが、御前山の登山口である。
8:30に着くと、いきなり急登が始まる。下は凍っていてツルツル。しょっぱなからアイゼンをつけ、登り始める。それにしても、秋にいった三頭山といい、御前山といい、湖からの登山路は、ものすごい急である。
急な登りの最中、ポットを落とし、取りに下るなどのハプニングなどもあったが、わりといいペースで登って行く。

 大ブナ尾根のあたりは、さほど急でもなく、雪も多く、歩きやすい。奥多摩湖も見え、景色を見ているだけでも、あきない。


再び、惣岳山への登りで急になり、11:25着。そのまま進み、御前山到着が、11:45。途中までは晴れていたが、頂上近くになると、くもり空が広がった。
そこで昼ご飯を広げ、携帯コンロを出し、パックのおでんをあたためて食べる。くもっているせいか、川乗山の時よりずっと寒く、食べながらも手袋をはずせない。こういう時は、あたたかいものを食べるのに限る。

あまりの寒さに、食べ終わると早々に、12:40下山開始。すぐに、避難小屋があらわれたが、きれいですごくいい建物である。
避難小屋を出たのが1:00。栃寄におりたのは3:00。境橋のバス停3:20着。

奥多摩の山は、川乗山もそうだったが、上の方は雪がかなり積もっていて歩きやすいが、登り始めと下山最後のあたりが、凍っていて滑りやすかった。
秋に三頭山、きのう御前山に登った。つぎは、いつか残り奥多摩三山のうちの残りの一山、大岳山にも登りたい。

帰りは、奥多摩駅近くの温泉、もえぎの湯に寄り、生ビールでカンパイ! 楽しい1日であった。

計画表

明日は御前山

2005-02-12 06:44:04 | 3・山の日記
明日はまた奥多摩の御前山に、良流娯さんと私の娘と喜多村さんと一緒に登ってきます。。
写真は、きのう川乗山から見た御前山。手前は本仁田山。


<2月13日>

立川 6:39→ 奥多摩 7:46

奥多摩 7:50→ 8:20 小河内ダム 

登山口 8:30 → 10:00 サス沢山 →11:05 惣岳山→ 
  (530m)           (940m)           

11:30 御前山 12:30 → 1:30 栃寄大滝 →
       (1405m)

2:10 栃寄 → 2:35 境橋  

バスまたは歩き → 奥多摩駅



川乗(苔)山に登ってきました!

2005-02-12 06:33:29 | 3・山の日記
奥多摩は、東京近郊の山である。
朝早く家を出て、1日かけて山に登り、夕方には家に帰り着く。そこそこ登りでもあり、いいコースも多い。
去年の秋頃から、奥多摩もいいなあと思って、何回か出かけている。
それで、冬は初めてなのだけど、昨日は川乗山。それに続いて、明日は御前山に登りに行く。

きのうは、明日のための下調べ。夫が属している築地山岳会の山行に参加させてもらった。
8:45分に川乗橋でバスをおり、登り始める。最初のうちは日中も日が当たらない谷間で、もう寒くて震えた。(右上写真はスタート地点、夫撮影)

しばらく登ったところで、雪があらわれる。谷間なので、カチカチに凍っていた。
私は、滑りそうなので、あっという間に8本爪アイゼンをつけるが、築地山岳会のメンバーは、全然つけずに平気で登っていく。1月に八ヶ岳・赤岳のバリエーションルートを登る人たちなので、バランスがいいのだ。
最初のうちは、沢沿いに登っていった。滑ったら、沢に転落しそうな道である。

上に登るにしたがって、雪が深くなり、ところどころ凍ってはいたが、雪道を登る楽しさを味わえた。
まだ若い石ちゃんのあとを、必死でついて行く。途中、谷についた道をそのまま登っていって、間違えてことに気づき、もどって登り直す。

12:15頂上着。頂上で全員集合写真を撮ってもらった、はずだったが、なぜか写っていなかった。明日行く、御前山を確かめた。
(写真は頂上に続く稜線)

昼食後、1:00出発。
4:00にこりの駅についた。けっこう歩きでもあり、くたびれた1日だった。
登りはコースタイム通り行けたが、下りは、凍っている所を通過するのに、時間をくうため、多少多めにかかる。
電車に乗って、それぞれ家路についた。
築地山岳会の人たちは、築地の市場で働いている人が多く、毎朝2時頃起きて仕事をしている人もいる。帰りにちょっとどこかに寄って、いっぱいという風にはならないようである。

計画表

山、また山

2005-02-10 21:22:30 | 3・山の日記
明日2月11日は、奥多摩の川乗山に登ってきます。一緒に行くのは、夫が属している築地山岳会の人たちと。私は初めて参加させてもらいます。

<2月11日>

立川 7:05→ 奥多摩 8:23→(バス)川乗り橋

→(登り 3時間30分) 川乗山 (1363m)

→(下り 2時間35分) こり駅


というコースのようです。詳しい時間は不明。

この山行で、奥多摩の山の上の方がどんなか雪のようすを見てきて、つぎの日曜日、2月13日に、また奥多摩の御前山に登りに行きます。雪の山が初めての良流娯さんと娘、それにホイッスルの喜多村さんと行く予定です。

むかしの杉並・つづき

2005-02-10 12:39:04 | 9・昔の風景
きのうむかしの杉並のことを書いたところ、あいあいさんが次のコメントを残してくれた。
あいあいさん、ありがとう。

「若い頃、久我山に1年間だけ一人暮らしをしたことがあります。よく、神田川を歩いて井の頭園まで散歩しました。
それにしても、紅蓮さんが子どもの頃といえば、それほど昔ではないですよね。その頃、久我山を馬が通っていたなんて。「急激な近代化」なんて言葉がニュースで使われますけど、本当にめまぐるしく変わったのだなと思いました。「杉並」だったり「久我山」だったり、美しい風景は地名に残るだけになってしまいましたね。」

私が子どもの頃は、相当昔なのか、ちょっと昔なのかというと、なかなか難しい質問ですが(笑)、今50代の私は、東京というか、日本の近代化のようすを自分の目で見て知っている。
ところが、5歳の下の妹は、どうも知らないようなのだ。

私が子どもの頃は、水は井戸からくみ上げていた。
ある日、水道屋さんのおじさんがきて、水道の蛇口をつけ、そこからザーザーと水が流れ出てくるのを見て、ビックリしたのを覚えている。それは多分小学生になる前。
冬になると、水道管が凍ってしまい、水が出なくなるのを知ったのもその頃。

テレビが家にきたのは、小学生の低学年だったが、それまでは、よその家のテレビを、垣根越しに見ていた。それがなぜか、プロレスだったりするのだけど。おもしろいと思っていたのかどうなのか。
でも、どうしてもテレビを見たい! と思っていたのだけは覚えている。
それまでは、ラジオしかなかった。でも、ラジオのドラマも、今思うと、すごく面白かったのだけどね。映像がない分、想像力がはたらいて、こわい番組を、震えながらよく聴いていた。

妹は、水といえば、水道から出てくるのが当たり前。テレビも、洗濯機も、冷蔵庫も家にあるのがあたり前、の世代である。

むかしの杉並

2005-02-09 07:18:50 | 9・昔の風景
久我山駅の近くには、橋が三つあった。橋の下を線路が通っているのだけど、そのおかげで、今でも、久我山周辺には、踏切があまりなく、線路を渡るのに便利だ。

この写真は、私の家からは一番遠い銀蔵橋。遠いといっても、歩いてわずか7分ほどの距離だけど。
この橋を渡ると、向こう側は、森になっていた。
少し歩くと雑木林もたくさんあって、そこは子ども達にとって天国だった。



昔、杉並では、木登りもできた。
原っぱもあった。
道で遊んでいても、車にひかれる心配などなかった。
どこの馬場から馬が来ていたのかわからないが、たまに馬にのった人も通った。パカパカと足音がすると、窓に近寄って、わくわくしながら、見た。
道はじゃり道で、舗装道路に変わったのは、小学生になったか、ならないかの頃。
舗装道路になってからは、馬が通ることはなくなった。

銀蔵橋の向こうの森がなくなったのは、小学高学年の頃だろうか。
木が切られて、家がたくさん建ち並び、そこに私の友だちも引っ越してきて、仲良くなった。

(写真は近所の友だちをはさんで、右が姉。左が私)

むかしの久我山駅

2005-02-08 12:48:52 | 9・昔の風景
昔住んでいた杉並区は、東京の23区内ではあるが、武蔵野市、三鷹市に接しているはずれの地域である。最寄りの駅は井の頭線の久我山。

私が子どもだった頃は、すごい田舎だった。
写真を写すのが好きだった父が残してくれたフィルムを整理していると、ああ、なつかしいなあと思う写真に、たびたび出会う。

それを見ると、50年前はあそこらが、どんなだったかわかるので、とても貴重なフィルムだと思う。

久我山駅は、今でも小さな駅であるが、その昔は、駅には砂利が敷き詰められていた。この写真の女の子は、私ではなくて、姉である。

それから大体、10年後の久我山駅。(右上の写真)姉は写っていないが、この写真を撮っているのかもしれない。質屋さんの看板が出ているけど、質屋さんて、おおかた町から消えてしまった。

雪三昧

2005-02-07 07:02:57 | 4・テレマークスキー日記
雪、雪、雪の三日間。
赤倉温泉スキー場でスキーを楽しんできました。

一緒に行ったのは、ホイッスルの10人と娘の11人。
4日午前から滑るために早朝出発したのは、5人。
午後から滑ろうとやってきたのは、一番年少の小学3年のK太君ら3人。
その夜、仕事を終えて、2人やってきて、次の朝夜行バスで娘が到着。
やっと全員そろった。
(写真はK太君を囲んで)

わずかに雲が切れたほかは、ずっと雪。でも、おそらく私にとって今シーズン最後のゲレンデスキー。
昼ご飯を食べる時に休んだほかは滑り続けた。

3日目は、起きたら、雪が小降りになっていた。ゆっくり温泉に入っているみんなをおいて、良流娯さんと娘と3人で、さっと8時に宿を出る。
ちょっと雲も切れて、圧雪したあとも滑りやすく気分はサイコー!

このまま晴れてくれるかと思いきや、雪は降ってなかったものの、上の方のゲレンデに行くと、濃いガスにおおわれ、しかも、だんだん濃くなり、最後はどちらが上か下かもわからないようになってしまった。
でも、温泉もスキーも目いっぱい楽しんできました。