紅蓮(ぐれん)のポケット

子どもの本の作家・三輪裕子のふつうの毎日
2015年夏。三宅島で農業を始め、東京と行ったり、来たりの生活になる

カモの性別

2005-03-17 06:34:51 | 20・日々のできごと
あたたかくなったので、きのうは野川沿いに買い物にいった。

野川では、カモが群れをなして泳いでいる。オンドリもメンドリも泳いでいるところを見ると、きっと夏前になったら(もっと早い時期かも)、ヒナたちが野川をいったりきたりして、かわいい姿を見せてくれることだろう。ヒナがたくさんで泳いでるのは、ほんとかわいい。

ところで、いつだったか、真蘭さんのBlogで、カモの性別はオス、メスというのか、オンドリ、メンドリというんだろうか、という話しになった。私はオンドリ、メンドリというのかと思っていた。真蘭さんは、オンドリ、メンドリというのは鶏の場合だと思っていた。

さて、どちらでしょう?

おんどり「雄鳥」を「大辞林」でひいてみる。

雄の鳥。とくに雄のニワトリ。
 
なんとも、わかりにくい説明。この「とくに」っていうのは、なんなんだ? 

それで、つぎに、「新明解国語辞典」をひいてみた。

雄の鳥。ニワトリの場合は「雄鶏」と書く。

こちらはわかりやすい。カモだって、ニワトリだって、「オンドリ」でいいのである。ただし、「ニワトリ」のオンドリは字がちがうのだけどね。
ほんとかなあ???

サイクリングキャンプにいこう!

2005-03-16 07:20:57 | 1・作品紹介
<勇太と鉄平の冒険旅行三部作・その3>

 1998年2月

 絵・風川恭子

 あかね書房


弟と家出するという鉄平に「いっしょにいく」といってしまった勇太。
ところが、家出キャンプはハプニングの連続。

◆勇太と鉄平の冒険旅行三部作
 その1「自転車で行こう!」 
 その2「ブルートレインで行こう!」 

◆この本の紹介 → 日本農業新聞

◆この本に関するBlog → 多摩川とのかかわり

小学6年生の頃

2005-03-15 06:19:40 | 2・仕事の周辺
息子はさっさと親離れしたが、まだ小学6年生ということもあって、それからは、私は日帰りの山行には行ったが、泊まりがけではあまり行かないようにした。あと1年、中学生になるまでは、身近にいて、みていてあげようと思った。

そこで、私が考えたのは、息子が一緒に遊んでいる友だちを誘って、一緒に山に行ったり、遊びに行くのはどうだろう、ということだった。

その手初めが、羽村までのサイクリングだった。たすくちゃん、高沖君、まっちゃんを、くすの木で行こうとしていたサイクリングに誘ってみると、みんな行きたいといった。息子も喜んで、「それなら行く」という。要するに息子は、くすの木少年団より、クラスの友だちと遊ぶ方がよくなったのだ。

羽田までも遠かったが、羽村までも、また遠かった。
が、くすの木少年団の子供達も、みな小学校高学年になっていたこともあって、びゅんびゅん飛ばしていった。
息子の友だちも、くすの木の仲間と会うのは初めてだったが、羽村の堰に着くと、みんな一緒になって遊んだ。

息子、娘が小学生だった8年間、私は何人かのメンバーと、月1回「くすの木新聞」というのを発行していた。今回久しぶりに引っ張り出して読んでみた。「羽村まで往復80km・サイクリング」 

今なら、おそらくホームページかBlogで、新聞を作っただろう。その頃は、まだほとんど手書き。たまにワープロのこともあった。

「サイクリングキャンプに行こう!」はその時に、息子や友だちと一緒に行った時に、ヒントをもらって書いた、シリーズ最終刊。

そうして、その1年間、近くのカニ山というキャンプ場で、テントで泊まったり、テント担いで奥多摩の七ツ石岳に登ったり、11月の雪の天狗岳に行ったり、スケートしに行ったり、息子の友だちも一緒に、あちこち出かけることになった。さすがに、雪の天狗岳に一緒に行きたがったのはただ一人、まっちゃんだけだった。→ 「雪山の思い出」

  


その頃、そのシリーズとほぼ同時進行で、もう少し年齢が上の子を対象にして書いていた作品がある。「峠をこえたふたりの夏」を初めとする3部作だが、それについては、また別の機会に書こうと思う。そちらは、息子だけではなく、娘も頭の中に置いてストーリーを書いた。

(トップの写真:羽村の堰)

今日の日記

2005-03-13 21:07:20 | 11・健康
今日は東京地方、午前中は穏やかに晴れ、午後は突然くもって寒くなった。
ホイッスルでは、奥多摩の高水三山に登りに行ったが、今日は母の介護があって、私はパス。
昨日の大学のクラス会も、行けなかったが、アメリカからやって来たKさんを交えて、みんなで楽しい時間を過ごしたことだろう。すごーく残念!!

ふだん、週末から週初めにかけて(金曜日~月曜日)は、あまりフリーにならない。フリーになると、山やスキーに行く。フリーな時は、まとめてやってくるので、来週もスキー(ゲレンデ)、再来週もスキー(テレマーク)に出かける予定である。

今日は、昼前少し時間があいたので、泳ぎに行った。深大寺の総合体育館の改装工事が終わったので、通いなれたプールに行くことにした。今年は、これまでのところ、いつもほど泳ぎに行っていない。1回1km泳いでいるが、今日でやっと6km泳いだところ。1年間に50km泳ぐのを目標にしているが、この分だと到達できないかも。
泳ぐのは大好きで、今はもっぱらスロースイムである。仕事のことや、その他もろもとのことを考えながら、ゆっくり泳ぐ。体がほぐれて、気持ちがいい。

(写真:深大寺自由広場にも春の訪れを感じた)

息子の自立

2005-03-12 07:17:54 | 20・日々のできごと
何事もマイペースの息子だったが、あっという間に自立の時はやってきた。

今は、夫も私もそれぞれで山に行くことが多いが、子どもたちが小学校の頃は、近所の山好きの家族と一緒に、くすの木山の会というのを作り、月に一回、家族一緒の山登りを続けていた。ふだんはみな、自分の仕事や遊びでばらばらに過ごしている我が家も、月一回のその日は、日帰りやテントをかついでの泊まりの山行に一緒に行った。

山では、大人も子どもも、みんなで力を合わせないとやっていけない。だれかがテントを立てている間に、だれかはごはんを作る。

荷物だって、子どもの物まで持ってやれない。自分一人の物を背負っていくので、せいいっぱいなのだから。それぞれが、自分の足で歩いてピークを目ざす。荷物は重いし、息は切れて苦しいけど、そうやって汗を流すって、爽快だ。樹木の間を吹きわたる風は心地よくて、生き返る。それに何より、
「きょうの岩場、鎖が張ってあった所、超スリルがあって、楽しかったね。」
など共通の体験、話題ができるのもいい…。
と思っていたのは、実は私と夫だけだったらしい。

息子は小学六年になったばかりのある日、突然いった。
「もう、ぼくは山へは行かない。」
「えーーーーーっ、どうしてーーーーーー?」
「行きたくないから。」
「ごはんは、どうするの?」
「自分で作るよ。」
「何を?」
「夜はお好み焼き、朝は目玉焼き、昼はラーメンを作る。」
「みんな行くんだから、夜たった一人で寝るんだよ。」
「うん。いいよ。」

私はそれ以上、もういう言葉もなく、
「日曜はみんな疲れて帰ってくるんだから、お風呂くらいわかしといてね。できればカレーくらい作っておいて。」
と、たいして期待もせずに、いった。

心配しながら山に登り、一泊して帰ってきてみたら、熱いお風呂とカレーライスが待っていた。息子の作ってくれたカレーライスを食べながら、しみじみと、彼は一段階めの自立を果たしたのだと思った。

(写真:息子の友だちも一緒に立川昭和記念公園までサイクリング。子供たちだけで高尾山に行くというので、その前に、自分たちだけでラーメンが作れるように、夫が携帯コンロの使い方を教えた)

ブルートレインでいこう!

2005-03-12 07:09:37 | 1・作品紹介
<勇太と鉄平の冒険旅行三部作・その2>

 1997年3月

 絵・風川恭子

 あかね書房


「ブルートレインに乗って1人で青森にいくことになった勇太。
ところが、「鉄平に一緒に乗せてくれ」とたのまれて・・。」

◆勇太と鉄平の冒険旅行三部作
 その1「自転車で行こう!」
 その3「サイクリングキャンプに行こう!」

夜行寝台「ふじ」

2005-03-11 07:14:20 | 2・仕事の周辺
物心ついた頃から、息子は列車が大好きだった。ふつうの絵本も好きだったけれど、夜寝る前に、何か読んであげようというと、必ず「特急列車」の本を一緒に、持ってきた。
あまり言葉もなく、ただ「小田急ロマンスカー」「箱根登山鉄道」「寝台特急ふじ」・・etc、列車の絵が描いてあって、名前が書いてあるだけの本だった、と思う。さほど、面白いとは思えないのに、息子は好きで好きでたまらないようで、いつも私が読むのに合わせて、一緒に列車の名前をいった。

子ども達が少し大きくなると、海外だけではなく、国内旅行にも、一緒に出かけるようになった。
中でも、一番の大旅行は九州の大分。一緒にイギリスを旅した友人、S子さん一家が住んでいたので、夏休みや春休みに、よく遊びに行った。その都度、阿蘇や別府、湯布院、天草などに足をのばした。



左:阿蘇

右:別府

最初に大分に行くことにしたのは、息子が小学校2年生の時だった。こういうチャンスはめったにないので、夜行寝台の「ふじ」で行くことにした。ブルートレインに乗るのは、生まれて初めて。息子は予想通り、大喜びした。

何回か九州に行くうちに、息子は、「一人で夜行寝台に乗りたい」といいだした。
それで、息子に条件を出した。「一人で東京駅まで行って、列車に乗れるようになったら。」
東京駅までついて行ってあげて、「ふじ」に乗せてあげれば、誰だって、朝になれば大分に着いている。それでは、あまりに簡単すぎると思った。

けっこう難しいハードルだったが、6年の春休みに、とうとう行くことになった。といっても、一人で行かせて、全て友人の家に世話になるわけにはいかないので、翌日の「ふじ」で、娘と私も二人で追いかけることにした。S子さんにはお世話をかけることになったが、大分駅までは、息子を迎えにいってくれることになった。

息子は、夜と朝のお弁当を、どこかに置き忘れてなくしたり、それなりに大変なことはあったが、初めての一人旅はなんとか遂行された。楽しさ半分、でも心細さも半分という旅だったようだ。

そんな息子を近くで見ながら、「自転車で行こう!」の続き「ブルートレインで行こう!」はできあがった。本の中では、ストーリーの進行上、主人公が行くのは、青森になったけれど。

(トップの写真:初めて乗った「ふじ」で。一人で宮崎まで寝台で帰る中学生の男の子と一緒になった。この子と出会ったことで、その後一人で行きたいという願望が生まれたようだ)

自転車でいこう! 

2005-03-10 06:02:43 | 1・作品紹介
<勇太と鉄平の冒険旅行三部作・その1>

 1996年4月

 絵・風川恭子
 
 あかね書房

 小学中学年以上



「おさななじみの鉄平から羽田空港まで自転車でゆこうと誘われた勇太。
ところが、途中でタイヤがパンクして大ピンチ! 昼までに空港に行き着けるのか?」


◆勇太と鉄平の冒険旅行三部作
 その2「ブルートレインで行こう!」 その3「サイクリングキャンプに行こう!」 

◆この本に関するBlog→ 羽田空港までサイクリング  多摩川とのかかわり

羽田空港までサイクリング

2005-03-09 10:59:21 | 2・仕事の周辺
息子が小学3年、娘が1年の時、近所の遊び集団「くすの木少年団」で、羽田空港までサイクリングをした。往復約70km。

保育園の子から、小学校6年生まで、そして、親たちも含めて、総勢八十台の自転車がずらっと並んで、多摩川に沿って走り続けた。えんえんとこぎ続け、海までたどり着いて、頭上を飛ぶ巨大な飛行機を見た時は、「うわー、やったー!!」と思った。
その日は、夕方も暗くなった頃、私も子供たちも、くたくたになって、家にたどり着いた。

あんなにくたびれ果てたのに、息子が、
「ネギちゃん(友だち)と二人で、また羽田まで自転車で行きたい」
といった時は、ちょっとビックリした。子ども二人だけで行けるかなと思った。でも、せっかく行きたいというのだから、
「昼ご飯の時間まで、行ける所までいって、羽田空港にだどり着かなかったら、そこであきらめて、もどってらっしゃい」
といって、お弁当を持たせ、送り出した。内心、かなり心配ではあった。

その日の夕方、息子は着けなかったといって、くたびれたようすで、家に帰ってきた。
もうこりたかと思っていると、また行きたいという。
「今度だって、着けないんじゃないの?」というと、
「今度は、もっと朝早く出ることにする。」という。
息子なりに、たどり着く方法を、いろいろ考えていたのだ。

そうして、再び、朝早くネギちゃんと二人で出かけていった。
その日は、暗くなるまで帰らなかった。

心配しつつ待っていると、ようやく、満面の笑顔で帰ってきた。そして、
「羽田まで行けた。」という。
ネギちゃんの自転車はギアなしで、息子のはギアがあった。
それで、ネギちゃんがすごく疲れたので、途中で、自転車を交代して、両方が同じくらい疲れるようにしたという。

その日は、息子から、たくさん話しを聞いた。
それをもとに、創作したのが「自転車で行こう!」である。

(写真トップ:小さい子供もオジサンもひたすらこぎ続けた)

息子が小学生の頃

2005-03-08 13:43:53 | 20・日々のできごと
きのう息子のことを書いていて、思い出したことがある。
とにかくマイペースの子供だった。

私が水泳が好きだったことから、子供たち二人には、スイミングには通わせず、私が泳ぎを教えることにした。よく旅に連れて行っていたので、湖をボートで渡ることもある。いきなり深くなる滝の淵で泳ぐこともあった。そういう時に思ったのは、万が一おぼれそうになっても、二人いっぺんには助けられないなということだった。それで、できるだけ早いうちに、泳ぎだけは教えようと思った。

小学1年生になった時、そういうわけで、息子はすでに25m泳げるようになっていた。スイミングに通っている子供たちが大勢いたが、その子達とくらべても、泳げる方だった。

学校では、検定試験というのがある。最初は、顔を水につけて、5秒間ただ浮いているというもの。それから、次はバタ足で5m。10m、25m・・とだんだん距離が伸びていく。
息子は、小1にしては、かなり上の級に合格できる実力があった。

ところが、一番下の級が受からないのである。最初は、よくやり方がわからなかったのだろうと思って、「次はがんばりなさいね。」といったが、その次もだめ。
それを聞いて、「私が教えてあげて、泳げるのに、なんでそんなのができないの!」と怒ってしまった。
息子は、情けない顔をしていた。

しかし、またその次もだめだった時に、ついに聞いた。
「なぜたったの5秒間、ただ浮いていることができないの?」
「水の中に顔をつけてると、まだみんなもやってるか、どうしても見たくなっちゃうんだよ。」

それには、笑ってしまった。まあ、いいや。やりたいようにやりなさい。肝心なのは、死ぬかどうかという時に、泳げればいいのだ。放っておくことにした。

そんなんで、最低の級に合格したのは、二年生になってからだった。50mも泳げるようになっていたのに、息子は最初の級をもらって、喜んでいた。

(写真:上越巻機山のふもとで沢遊びをした時の)