介護のことを少し書いて行こうと思うので、カテゴリーを一つ増やした。
きのうは、電話デー。母がいて直接出向くことができないので、とにかくあちこちに電話をした。
今お世話になっているケアマネージャーさんに。いくつかの老健施設(短期入所施設)に。
その間に、Blogにも、メールでも、いろいろとアドバイスを頂いた。ほんとうにありがとうございました。
長期の療養型病院というのも、インスリンコントロールが必要な母の場合、選択肢の一つだけれど、老人保健施設がさしあたって、一番よさそうなのがわかった。いわゆる老健といわれているところで、1ヶ月~3ヶ月の間、在宅にもどることを前提に、リハビリだの介護だのしてくれる。
それで、いくつかの老健に電話して、こちらの状況を話した。どこもみな、親身になってくれて、ほんとうにありがたかった。だけど、ただ電話で応対してくれるだけでも、ああ、いいなあ。この人が働いている所で、母の世話を頼みたいなあ、という気持ちにさせてくれるところがある。
どこが違うのだろうと考えた。
一言でいうと、応対がマニュアル化していない。マニュアル化していると、機械的で、何か心が感じられない。(一応そんなことをいえる立場にはないのだけど・・)
一番アットホームな感じがあふれていたその施設Uに、近々申請書を出すことに決めた。
判定会議というのにかけられて、受け入れOKとなった場合、待機者リストに載るそうだ。それから順番で入所が決まる。「どのくらいの時期になりそうですか。」と聞いたら「一応目安は3ヶ月後。春くらいでしょうか。」
判定会議でダメとなるのは、母の場合、糖尿病の病状が安定していないと認められた時。つまりインスリンでの血糖コントロールがうまくいってない時。そうなると、選択肢はただ一つ、長期療養型の病院のみとなる。
明日、あさっては、北八の蓼科に泊まって、ピラタススキー場でテレマークスキーをしてくる。
週末は今月ずっと介護で出られないので、平日なのだけど行くことにした。
一緒に行くのは、さとさん。
一昨年の年末、栂池で一緒にスキーをした。それ以来。さとさんはケガを克服して、ようやく今期スキーができるようになった。また一緒に滑れると思うと感無量。
(写真トップは、2年前初めてテレマークスキーをした時のピラタス。)
きのうは、電話デー。母がいて直接出向くことができないので、とにかくあちこちに電話をした。
今お世話になっているケアマネージャーさんに。いくつかの老健施設(短期入所施設)に。
その間に、Blogにも、メールでも、いろいろとアドバイスを頂いた。ほんとうにありがとうございました。
長期の療養型病院というのも、インスリンコントロールが必要な母の場合、選択肢の一つだけれど、老人保健施設がさしあたって、一番よさそうなのがわかった。いわゆる老健といわれているところで、1ヶ月~3ヶ月の間、在宅にもどることを前提に、リハビリだの介護だのしてくれる。
それで、いくつかの老健に電話して、こちらの状況を話した。どこもみな、親身になってくれて、ほんとうにありがたかった。だけど、ただ電話で応対してくれるだけでも、ああ、いいなあ。この人が働いている所で、母の世話を頼みたいなあ、という気持ちにさせてくれるところがある。
どこが違うのだろうと考えた。
一言でいうと、応対がマニュアル化していない。マニュアル化していると、機械的で、何か心が感じられない。(一応そんなことをいえる立場にはないのだけど・・)
一番アットホームな感じがあふれていたその施設Uに、近々申請書を出すことに決めた。
判定会議というのにかけられて、受け入れOKとなった場合、待機者リストに載るそうだ。それから順番で入所が決まる。「どのくらいの時期になりそうですか。」と聞いたら「一応目安は3ヶ月後。春くらいでしょうか。」
判定会議でダメとなるのは、母の場合、糖尿病の病状が安定していないと認められた時。つまりインスリンでの血糖コントロールがうまくいってない時。そうなると、選択肢はただ一つ、長期療養型の病院のみとなる。
明日、あさっては、北八の蓼科に泊まって、ピラタススキー場でテレマークスキーをしてくる。
週末は今月ずっと介護で出られないので、平日なのだけど行くことにした。
一緒に行くのは、さとさん。
一昨年の年末、栂池で一緒にスキーをした。それ以来。さとさんはケガを克服して、ようやく今期スキーができるようになった。また一緒に滑れると思うと感無量。
(写真トップは、2年前初めてテレマークスキーをした時のピラタス。)
パパさんが亡くなられたことは、12月21日に書いた。
驚いて、すぐに手紙を書いて送ったところ、ママさんからカードが届いた。生前のパパさんの写真も入っていた。最後は、2005年クリスマス。ちゃんと準備よくクリスマスの写真を撮ってから、病院に入って、5日後に他界したのだなあと思った。
母国語は英語の、日系Ⅱ世のママさんが日本語で手紙を書くのは、私が英語で書くのと同じくらい大変なのである。でも、一生懸命に書いて送ってくれた。
今90歳のママさんがパパさんの写真と一緒に写っている。それを見て、しみじみママさんは一人になっちゃったんだなあと思って、涙がこぼれた。
でも、ほんとうに自立しているママさんのことだ。きっと気丈に明るく暮らして行くのだろう。
パパさんのご冥福をお祈りするとともに、いつまでもママさんには元気でいてほしいなあと思った。
驚いて、すぐに手紙を書いて送ったところ、ママさんからカードが届いた。生前のパパさんの写真も入っていた。最後は、2005年クリスマス。ちゃんと準備よくクリスマスの写真を撮ってから、病院に入って、5日後に他界したのだなあと思った。
母国語は英語の、日系Ⅱ世のママさんが日本語で手紙を書くのは、私が英語で書くのと同じくらい大変なのである。でも、一生懸命に書いて送ってくれた。
今90歳のママさんがパパさんの写真と一緒に写っている。それを見て、しみじみママさんは一人になっちゃったんだなあと思って、涙がこぼれた。
でも、ほんとうに自立しているママさんのことだ。きっと気丈に明るく暮らして行くのだろう。
パパさんのご冥福をお祈りするとともに、いつまでもママさんには元気でいてほしいなあと思った。
久しぶりに深大寺の総合体育館のプールに泳ぎに行った。今年初泳ぎ。1km。
この2-3日くたびれていた。あまり目を離せない母がいるので、max1時間。自転車でどこかへ行こうかと思ったけど、直前に、「いろいろ考えながら自転車や車に乗って事故をおこさないで」とメールが送ってくれた人がいる。その通り、ありがとう。今日は危ない感じ。そういう時には、考え事をしていても、安全なのが水泳というわけなのだった。
そして、泳ぎながら考えた。
最近このBlogを知らせた人がけっこういるのだけど、読んでくれた人はみんな、介護で忙しいといっているわりには、よく山だのスキーだの行けるね、という。いつもどこかに行っているじゃない、と。
実際にその通りなのだけど、3年半前にBlogを始める時に、なるべく母の介護生活のことは書かずに、楽しいことだけを書いて行こうと、なんとなく決めたのだ。
介護生活の合間に、何をしたかの記録を残したいと思った。
それで今日は、これから介護を始める人もいるので、ちょっと介護のことを書きたい。
母は、介護度3で、糖尿病があるため、毎日3回のカロリー食と、朝食前のインスリン注射が必要。少し前までは夕飯前も注射が必要だった。あとは時によっては、血をとって、血糖値測定器で血糖値測定をする。他にももちろん身体介護も必要。
そういうことの全てを、姉が月曜日から金曜日までみていて、私が金曜日から月曜日までみている。姉がみている平日の火曜~木曜日まで、私は本を書く仕事をする。
そういう生活だけで終わっていたこともあったが、これだと私たちの自由は全くない。父が生存中は、父もしじゅう重篤な状態におちいる2年近い日々があったので、2人の介護だけで終わっても、そう問題はなかった。自由になったところで、何ができるわけでもなかったから。
3年近く前に父が亡くなって、母1人の介護をすればよくなってから、この生活はいつまで続くかわからないので、もうちょっと自分たちの生活も大事にしようということになった。
それで選択したのが、ショートステイ。
要介護度3の人の場合、今では、日数的には、1年の半分はショートステイをすることができる。(父の時は、半年間でわずか2週間だった)
他にも連続して20日以内、1ヶ月に15日以内、などいくつかの規定がある。
そのおかげで、山もスキーも海外も行けたのだけど、実際にはいつも綱渡りのようにして行っていた。
ショートステイは3ヶ月前の申し込みが必要なので、いつもカレンダーの3ヶ月先を見るクセがついた。みんなが春の予定を話している時に、私は夏と秋のことを考えていた。
その綱渡りも、昨年の後半くらいから、難しくなってきた。
母の状態が悪くなったのと、介護している姉も私も、10年近い介護生活のストレスやら加齢によって、自分たちの健康が危なくなってきたのだ。今の生活では、自分の病院通いすらままならない。
それで、次の段階にすすむしかないかなあ、と新年になって思い始めた。
次といっても、どうするかよくわからないのだけど。さしあたって、次の選択肢は、老健施設か長期に受け入れてくれる医療機関ということになるのか?
ここしばらくは、そういう所を調べるのにも時間をさかなくてはならない。
この2-3日くたびれていた。あまり目を離せない母がいるので、max1時間。自転車でどこかへ行こうかと思ったけど、直前に、「いろいろ考えながら自転車や車に乗って事故をおこさないで」とメールが送ってくれた人がいる。その通り、ありがとう。今日は危ない感じ。そういう時には、考え事をしていても、安全なのが水泳というわけなのだった。
そして、泳ぎながら考えた。
最近このBlogを知らせた人がけっこういるのだけど、読んでくれた人はみんな、介護で忙しいといっているわりには、よく山だのスキーだの行けるね、という。いつもどこかに行っているじゃない、と。
実際にその通りなのだけど、3年半前にBlogを始める時に、なるべく母の介護生活のことは書かずに、楽しいことだけを書いて行こうと、なんとなく決めたのだ。
介護生活の合間に、何をしたかの記録を残したいと思った。
それで今日は、これから介護を始める人もいるので、ちょっと介護のことを書きたい。
母は、介護度3で、糖尿病があるため、毎日3回のカロリー食と、朝食前のインスリン注射が必要。少し前までは夕飯前も注射が必要だった。あとは時によっては、血をとって、血糖値測定器で血糖値測定をする。他にももちろん身体介護も必要。
そういうことの全てを、姉が月曜日から金曜日までみていて、私が金曜日から月曜日までみている。姉がみている平日の火曜~木曜日まで、私は本を書く仕事をする。
そういう生活だけで終わっていたこともあったが、これだと私たちの自由は全くない。父が生存中は、父もしじゅう重篤な状態におちいる2年近い日々があったので、2人の介護だけで終わっても、そう問題はなかった。自由になったところで、何ができるわけでもなかったから。
3年近く前に父が亡くなって、母1人の介護をすればよくなってから、この生活はいつまで続くかわからないので、もうちょっと自分たちの生活も大事にしようということになった。
それで選択したのが、ショートステイ。
要介護度3の人の場合、今では、日数的には、1年の半分はショートステイをすることができる。(父の時は、半年間でわずか2週間だった)
他にも連続して20日以内、1ヶ月に15日以内、などいくつかの規定がある。
そのおかげで、山もスキーも海外も行けたのだけど、実際にはいつも綱渡りのようにして行っていた。
ショートステイは3ヶ月前の申し込みが必要なので、いつもカレンダーの3ヶ月先を見るクセがついた。みんなが春の予定を話している時に、私は夏と秋のことを考えていた。
その綱渡りも、昨年の後半くらいから、難しくなってきた。
母の状態が悪くなったのと、介護している姉も私も、10年近い介護生活のストレスやら加齢によって、自分たちの健康が危なくなってきたのだ。今の生活では、自分の病院通いすらままならない。
それで、次の段階にすすむしかないかなあ、と新年になって思い始めた。
次といっても、どうするかよくわからないのだけど。さしあたって、次の選択肢は、老健施設か長期に受け入れてくれる医療機関ということになるのか?
ここしばらくは、そういう所を調べるのにも時間をさかなくてはならない。
今年最初で、多分最後の新年会。
小学校の仲間たちと、去年のクラス会をきっかけにして集まるようになった。昔を共有している人たちと過ごす時間は楽しい。でも、何回か会うと、話しの比重も自分たちの子ども時代から今に移る。
私たちの世代は、両親介護をかかえていたり、一方で、老後という同じ道に自分たちも1歩踏みだしつつある。情報だの、楽しい時間だの共有していけるといいね。
だけど、「手ひどいね。」(フフ、Blog読んでくれてるのね)といわれショック。これでももう直っているんだけど。二度とシラウオの手には戻れないかも。(泣)
そして、昨日は、前日の連絡で突然集まるようになったので、H野さん、O澤さん、久我山散人さん(となぜか固有名詞・笑)、他のみなさんに連絡しそびれた。次回は声をかけます。
小学校の仲間たちと、去年のクラス会をきっかけにして集まるようになった。昔を共有している人たちと過ごす時間は楽しい。でも、何回か会うと、話しの比重も自分たちの子ども時代から今に移る。
私たちの世代は、両親介護をかかえていたり、一方で、老後という同じ道に自分たちも1歩踏みだしつつある。情報だの、楽しい時間だの共有していけるといいね。
だけど、「手ひどいね。」(フフ、Blog読んでくれてるのね)といわれショック。これでももう直っているんだけど。二度とシラウオの手には戻れないかも。(泣)
そして、昨日は、前日の連絡で突然集まるようになったので、H野さん、O澤さん、久我山散人さん(となぜか固有名詞・笑)、他のみなさんに連絡しそびれた。次回は声をかけます。
一体いつから、今年ヨセミテ国立公園に行こうかと考えたかというと、去年の6月である。
ヨセミテヴァレーには、いくつかの宿泊施設があるけれど、ちょうど1年前から予約を受け付けている。
2004年9月に行った時には、4月くらいに行くことを決めたので、ヨセミテヴァレーの中心部、ヨセミテヴィレッジの宿はいっぱいで、泊まれなかった。
そのため、今回はきっかり1年前に、インターネットで何回もアクセスして、宿をとった。
私の予定も、同行者(2名)の予定も全くわからない時に、そんな努力をしたわけなのである。もう1度ヨセミテに行きたい一心で。
それでも、今年行ける確率は、母の具合を考えると、50~70パーセントくらいしかない感じである。果たして行けるかどうか……。
でも、この数日のいろいろなことを考えると、多分、来年以降、母のショートステイを受け入れてくれたとしても、行ける確率は10パーセントくらいに下がる。ほぼ海外には行けないと思った方がよさそうである。
そう考えると、今年は何とかして行きたいんだなあ。
トップの写真は、ハーフドームに登る途中、少し歩いたジョンミュアトレイル。後に見えるのはリバティーキャップ。最初あれがハーフドームかと思った。そんなに近いわけないって。(笑)
久我山散人さんが調べてくれたところによると、トレイルは延々と340キロメートル続いているそうだ。東京から秋田ぐらいまで。高尾山から入山して鳥海山の山麓に出るほどの距離。
ここを毎年何十人もの人が、一ヶ月間テント、寝袋、食糧を入れたバックパックを背負って踏破するというけど、あーすごいなあ。
ヨセミテヴァレーには、いくつかの宿泊施設があるけれど、ちょうど1年前から予約を受け付けている。
2004年9月に行った時には、4月くらいに行くことを決めたので、ヨセミテヴァレーの中心部、ヨセミテヴィレッジの宿はいっぱいで、泊まれなかった。
そのため、今回はきっかり1年前に、インターネットで何回もアクセスして、宿をとった。
私の予定も、同行者(2名)の予定も全くわからない時に、そんな努力をしたわけなのである。もう1度ヨセミテに行きたい一心で。
それでも、今年行ける確率は、母の具合を考えると、50~70パーセントくらいしかない感じである。果たして行けるかどうか……。
でも、この数日のいろいろなことを考えると、多分、来年以降、母のショートステイを受け入れてくれたとしても、行ける確率は10パーセントくらいに下がる。ほぼ海外には行けないと思った方がよさそうである。
そう考えると、今年は何とかして行きたいんだなあ。
トップの写真は、ハーフドームに登る途中、少し歩いたジョンミュアトレイル。後に見えるのはリバティーキャップ。最初あれがハーフドームかと思った。そんなに近いわけないって。(笑)
久我山散人さんが調べてくれたところによると、トレイルは延々と340キロメートル続いているそうだ。東京から秋田ぐらいまで。高尾山から入山して鳥海山の山麓に出るほどの距離。
ここを毎年何十人もの人が、一ヶ月間テント、寝袋、食糧を入れたバックパックを背負って踏破するというけど、あーすごいなあ。
もうずっと前から考えていた今年の目標である。
今年は、もう1度ヨセミテ国立公園を訪れようと思っている。
時期は6月。
2004年9月に行った時のことはこのBlogに書いた。
20代の頃から憧れ続けてきて、ようやく願いがかなって、ヨセミテを訪れた。
けれど、初めてというのは、知らないことが多いものだ。
世界で何番目かの落差のあるヨセミテフォールに、水が1滴も流れ落ちていなかった。あれは、ショックだった。ようやくたどり着いてみたら、目の前にそびえるのは滝ではなく、ただの岩壁。9月では時期が遅すぎたのだ。今度は、ぜひ雪解け水がまだ豊富に流れている時に、行ってみたい。
もちろん、もう1度、あの大変だったハーフドームにも登りたい。前回は初めてのコースだし、地図を見たり途中で違うコースをいってしまったりで、気持ちに余裕がなかった。トップまで登れたものの、くたびれ果ててしまった。
登山口からハーフドーム頂上まで、往復27.4km 標高差1463m。今度はもっと楽しめる気がする。
遠くから見たハーフドーム。(写真トップ)後ろから回り込むようにしてルートがあるので、ぐるーっと歩いて、岩場にたどり着く。
そして、岩場の下からドームを見る。私の背中から上の岩壁にポツンポツンと見えるのが、登っている人である。
この岩場には、5月頃ワイアーが張られる。それがないと、ロッククライマーじゃないと登れない。大変だったけど、わくわくするほどおもしろかった。
そして、トップ。娘が岩の淵に腰掛けている。
ハーフドームに登った人はみな、登った直後は、2度ともう登るもんかと思う。けど、少しするとまた登ってみたくなる、というのもうなずける。あの時、私ももう2度と来ることはないだろうと思っていたのに、また行きたくなってしまった。
もう一カ所行きたいのが、ヨセミテのバックカントリーである。ハイシェラの山のふところに入り込んで、山に登りたい。アメリカの国立公園の父といわれる、ジョン・ミューアの歩いたトレイルを、さわりでいいから歩いてみたい。
今年は、もう1度ヨセミテ国立公園を訪れようと思っている。
時期は6月。
2004年9月に行った時のことはこのBlogに書いた。
20代の頃から憧れ続けてきて、ようやく願いがかなって、ヨセミテを訪れた。
けれど、初めてというのは、知らないことが多いものだ。
世界で何番目かの落差のあるヨセミテフォールに、水が1滴も流れ落ちていなかった。あれは、ショックだった。ようやくたどり着いてみたら、目の前にそびえるのは滝ではなく、ただの岩壁。9月では時期が遅すぎたのだ。今度は、ぜひ雪解け水がまだ豊富に流れている時に、行ってみたい。
もちろん、もう1度、あの大変だったハーフドームにも登りたい。前回は初めてのコースだし、地図を見たり途中で違うコースをいってしまったりで、気持ちに余裕がなかった。トップまで登れたものの、くたびれ果ててしまった。
登山口からハーフドーム頂上まで、往復27.4km 標高差1463m。今度はもっと楽しめる気がする。
遠くから見たハーフドーム。(写真トップ)後ろから回り込むようにしてルートがあるので、ぐるーっと歩いて、岩場にたどり着く。
そして、岩場の下からドームを見る。私の背中から上の岩壁にポツンポツンと見えるのが、登っている人である。
この岩場には、5月頃ワイアーが張られる。それがないと、ロッククライマーじゃないと登れない。大変だったけど、わくわくするほどおもしろかった。
そして、トップ。娘が岩の淵に腰掛けている。
ハーフドームに登った人はみな、登った直後は、2度ともう登るもんかと思う。けど、少しするとまた登ってみたくなる、というのもうなずける。あの時、私ももう2度と来ることはないだろうと思っていたのに、また行きたくなってしまった。
もう一カ所行きたいのが、ヨセミテのバックカントリーである。ハイシェラの山のふところに入り込んで、山に登りたい。アメリカの国立公園の父といわれる、ジョン・ミューアの歩いたトレイルを、さわりでいいから歩いてみたい。
26歳で初めて訪れて以来ずっと、一番好きな場所はと聞かれると、かならずアメリカの国立公園と答える。いつ行っても、何度行っても大好きな場所だ。
先日、NHKのテレビで星野道夫さんの世界を描いた「星のような物語」を見た。
それを見て、そういえば、アラスカの国立公園には行ってないなあと思った。
ここも書いたが、アラスカには、一度子どもたちが小学生の頃、訪れたことがある。
けれど、その時は、船に乗って海に出で、アザラシなどを見るような氷河ツアーに参加しただけだった。
あの時も、デナリ国立公園とかフェアバンクスとか行きたいなあと思って、ちょっと調べた。
けれど、宿泊施設が少なくて、とても2-3ヶ月前に予定を立てたのでは、泊まれないのがわかった。
アラスカに行くなら、キャンプかキャンピングカー。というのがその時以来、インプットされている。
テレビを見ながら「アラスカロッキー。いいなあ。」
と娘にいったら、「行くなら早くしなくちゃね。」
つまり、私の体力は年々衰えて、アラスカで私のしたいような旅、キャンピングカーで移動しながら山登りするような旅は、そのできなくなるだろうということなのだ。ごもっとも。(苦笑)
車の運転が好きな人には苦もないだろうけど、私は運転があまり好きじゃない。今も母を病院に連れて行くとか、必要な時以外めったに車の運転をすることはない。だから、運転がネックになって自由自在に見て回ることができない日というのが、そのうちくるだろう。かといって、団体旅行というのもまたあまり好きじゃない。現地に行って、あそこに行こう、あの山に登ろう、とその場で勝手気ままに動くのが好きだ。
この連休、たいていはスキーに行っているけど、1年ぶりに山形に住む息子が帰ってくるというので、久しぶりに家にいた私は、旅のことなど考えて過ごした。
まあしかし、息子の我が家滞在時間、わずかに4時間+4時間(寝ていた)。家にいるのも短すぎ。寝る時間も短すぎ。
(写真は、一度だけ行ったアラスカ)
先日、NHKのテレビで星野道夫さんの世界を描いた「星のような物語」を見た。
それを見て、そういえば、アラスカの国立公園には行ってないなあと思った。
ここも書いたが、アラスカには、一度子どもたちが小学生の頃、訪れたことがある。
けれど、その時は、船に乗って海に出で、アザラシなどを見るような氷河ツアーに参加しただけだった。
あの時も、デナリ国立公園とかフェアバンクスとか行きたいなあと思って、ちょっと調べた。
けれど、宿泊施設が少なくて、とても2-3ヶ月前に予定を立てたのでは、泊まれないのがわかった。
アラスカに行くなら、キャンプかキャンピングカー。というのがその時以来、インプットされている。
テレビを見ながら「アラスカロッキー。いいなあ。」
と娘にいったら、「行くなら早くしなくちゃね。」
つまり、私の体力は年々衰えて、アラスカで私のしたいような旅、キャンピングカーで移動しながら山登りするような旅は、そのできなくなるだろうということなのだ。ごもっとも。(苦笑)
車の運転が好きな人には苦もないだろうけど、私は運転があまり好きじゃない。今も母を病院に連れて行くとか、必要な時以外めったに車の運転をすることはない。だから、運転がネックになって自由自在に見て回ることができない日というのが、そのうちくるだろう。かといって、団体旅行というのもまたあまり好きじゃない。現地に行って、あそこに行こう、あの山に登ろう、とその場で勝手気ままに動くのが好きだ。
この連休、たいていはスキーに行っているけど、1年ぶりに山形に住む息子が帰ってくるというので、久しぶりに家にいた私は、旅のことなど考えて過ごした。
まあしかし、息子の我が家滞在時間、わずかに4時間+4時間(寝ていた)。家にいるのも短すぎ。寝る時間も短すぎ。
(写真は、一度だけ行ったアラスカ)
昨日の朝日新聞のbeにシェーンの舞台、グランドティトン国立公園のことが出ていた。
なつかしくて、しばしその昔、娘と息子、良流娯さん母娘と5人で行った旅に心が飛んだ。
このBlogにも書いたことがあるが、キャンプしたり、馬に乗ったり、ボートで川下りをして野生動物を見たりして何日間か過ごした。
中でも、一番楽しかったのは、雄大な自然をながめながらのキャンプ生活だった気がする。
でも、きのうの新聞を見て、あの時なぜ山登りをしなかったのだろうと考えた。
標高4200mほどのティトン山は無理としても、もうちょっと低くても登れる山があったのではないか。
う~ん、残念。
なつかしくて、しばしその昔、娘と息子、良流娯さん母娘と5人で行った旅に心が飛んだ。
このBlogにも書いたことがあるが、キャンプしたり、馬に乗ったり、ボートで川下りをして野生動物を見たりして何日間か過ごした。
中でも、一番楽しかったのは、雄大な自然をながめながらのキャンプ生活だった気がする。
でも、きのうの新聞を見て、あの時なぜ山登りをしなかったのだろうと考えた。
標高4200mほどのティトン山は無理としても、もうちょっと低くても登れる山があったのではないか。
う~ん、残念。
昨日も母の昼食の時間に合わせて、チャリ子で高井戸の病院まで行った。
またコースを変えてみた。
自転車に乗ったまま上るにはけっこうキツイ坂を通った。
写真をみるとわかるように、郵便局の人も自転車を引いている。だけど、チャリ子だと軽々と登れてしまう。ちょっと汗をかくけど。このチビチャリは、小さいのに、とても性能がいい。
そうして病院に行ったとたん、主治医の先生に会えた。
連休明けの9日には、母は退院できることになった。
昨日の走行距離<25.72km>
この距離をまっすぐにずっと走り続けると、私の家からどこらあたりまで行けるか?
近くを通っている甲州街道にある標識を見ると、「日本橋まで24km」
チャリ子で都心に行くことは絶対ないけど、その気になれば、銀座だって日本橋だって自転車で行けるということだ。
またコースを変えてみた。
自転車に乗ったまま上るにはけっこうキツイ坂を通った。
写真をみるとわかるように、郵便局の人も自転車を引いている。だけど、チャリ子だと軽々と登れてしまう。ちょっと汗をかくけど。このチビチャリは、小さいのに、とても性能がいい。
そうして病院に行ったとたん、主治医の先生に会えた。
連休明けの9日には、母は退院できることになった。
昨日の走行距離<25.72km>
この距離をまっすぐにずっと走り続けると、私の家からどこらあたりまで行けるか?
近くを通っている甲州街道にある標識を見ると、「日本橋まで24km」
チャリ子で都心に行くことは絶対ないけど、その気になれば、銀座だって日本橋だって自転車で行けるということだ。