蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

今年も金沢へ  (bon)

2016-07-10 | 日々雑感、散策、旅行

              今日、7月10日は、参議院選挙の投開票日です。
          与党の目標に届くでしょうか、1人区の野党連合の結果はどうなった
          でしょうか?  18歳の投票率はどうだったでしょうか?

 

 毎年この時期に金沢で開催される旧職場の懇親パーティーに出席して来ました。 
今年30周年を迎えましたが、相変わらず大勢の出席者が 8つの大テーブルを囲む会場は壮観でした。
当時職場を
同じくした人達や後輩、現役の人達との “七夕” よろしく再会の機会で、懐かしい
ひと時を過ごしてまいりました。

 この会は、1985年の民営化の際、会社組織が大幅に変更になった時に、同じ技術部門(背番号と
呼ばれていた)に属する同輩だけで構成する集まりを作り、民営化翌年に発足したのでした。
この組織変更は、もともと、石川、富山、福井の北陸3県を統括する技術部門であったのが、異なる
技術・設備部門をも統合した組織として再編されたのでした。
  あれから30年、もう会うことが出来ない人たちもいますが、当時、苦労を共にした懐かしい面々と
美酒を交わす時、湧き上がる 新鮮な喜びをかみしめ、また、元気な後輩や現役のみなさんからは、
改めて時代の進化を教えられるとともに、新しいエネルギーを注入されたように思えました。
 会の案内状の返信ハガキ綴りを見ると、やはり、体調不良の方が目立つ、そんな年頃の人が多い
ことを知らされ、今ここに出席できている我が身がひそかにありがたく思えるのでした。

 

 翌日は、まだ小雨が残っていましたが、今回は、金沢港方面に行ってみました。かって、車で
港を見に来た程度で、この地には初めて向かいました。金石(かないわ)
、大野・・そんな地名が
有名で、大野の醤油どころ、そして江戸時代の“海の百万石”といわれた豪商「銭屋五兵衛」記念館
などがお目あてで訪ねてみました。

        簡単な位置関係(地図)
     

 生憎、午前中は小雨で視界が優れず写真写りも今一つですが、歩いた順に並べてみました。
小雨降る金沢港は、ひっそりとしていました。潮の香りに誘われながら、港沿いに歩いて醤油どころを
目指しました。

 金沢港
   


 入り江にかかる橋を渡ると、もうそこは、“ヤマト醤油味噌”でした。

      


       

 港に添ってしばらくすると、日本海に突き出た先に“からくり記念館”がありました。幕末の
科学技術者「大野弁吉」(1801~1870)という人の、当時としては最先端の科学知識を駆使した
発明品などが展示されていました。子供連れが何組かいましたが、館内は静かでひとときタイムスリップ
したようでした。

     からくり記念館
        

 

 大野大橋の手前には、きれいに手入れされた公園が濃い緑に映えて大変美しい景観を呈していました。
小雨もほど良く止み、いっそう緑も深みが増しているようでした。北前船に見立てたオブジェが
ひときわ池のアクセントになっていました。 大野大橋を渡るとそこは、明治11年に私設で建てたという
“大野灯台”が白く輝いていました。もう雨はすっかり上がっていて気温はさほどではない
ものの、
蒸し暑く、歩くと汗がにじんでくるのでした。

       

       (上段:大野大橋から左右を見たところ。 下段:公園と燈台)

 

 銭屋五兵衛の立派な銅像は、記念館とは別の場所の小さな公園の一角に聳えていました。そこから
しばらく離れたところに“銭屋五兵衛記念館”が、きれいに手入れされた庭園に囲まれたようにあり
ました。 この時期、訪れる人も少ないのか、私だけの入館でした。 一人だけでしたが、親切に
解説ビデをを上映してくれました。 銭屋五兵衛は、1773年に生まれ、39歳の時に海運業を始め大きな
財をなす豪商となり 河北潟の埋め立て工事なども手掛けたのでしたが、大事業の半ばで事件の疑いを
かけられて儚く、80歳で牢死を遂げたそうです。 加賀の歴史で有名筋は、前田のお殿様と錢五と
いっても過言ではないかもしれません。

             

        (上段:銭屋五兵衛銅像    下段:記念館と庭園)

 

 金沢駅からは、昨年に続き、新幹線「かがやき」のお世話になりました。

       



 





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