蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

田原本町  (bon)

2017-05-16 | 日々雑感、散策、旅行

           昨日15日は、京都葵祭でした。1400年の平安の昔を再現する行列が、
                新緑の都大路を下り、大勢の観衆から喝采を受けていたそうです。

 

 奈良県磯城郡田原本町(しきぐんたわらもとちょう)のことです。

 全く個人的なことであり、そして70年以上も昔の子供の頃のことですので記憶もあいま
いですが、部分的ながら、ちょっと懐かしくもあり、ネットを頼りに想い出しつつ記述し
てみました。 
 先の日曜日(5/14)のお昼に NHK Eテレで“俳句大国~田原本町から”というのがあ
りまして、俳句は からきし出来ませんが、会場が田原本・・とありましたので懐かしい思
いで、視聴したのです。

 ここ田原本町には、わたしが4~5歳のころ 疎開していた場所なんです。特に知り合い
がいたわけでもなさそうで、たまたまここに移住していたようです。 昭和18年(1943年)
ころから 5年ほど住んでいたのです。 で、戦後、昭和22年に元の大阪に戻ってきましたが、
生まれた大阪北区空心町(旧町名)ではなく、天王寺区上本町2丁目(当時)でした。
ここは、後に通学することになる清水谷高校のすぐ近くで、当時は、まだ西のグラウンド
は無く、そこのところは瓦礫の山でした。

 田原本町というのは、近鉄橿原線の田原本駅がその中心で、近鉄奈良線の西大寺と近鉄
大阪線の八木のちょうど中間あたりにあります。

 田原本町は、現在も磯城郡田原本町で、人口は、今年4月で31,300人とありますから、
当時は他村合併前ですから、これよりもっと少なかったに違いありません。 田原本駅の
周辺を少し離れると、もう田んぼや畑でしたね。当時住んでいた家は駅の東側で、徒歩で
もすぐ近くで、家並みが続いていました。 近所には、小5か6年の ただっさん(松井正)
というガキ大将や、同い年で仲良しだった文(フミ)ちゃん(藤井文子)と家が並んでい
たことを覚えています。 我が家の前が天理教分教会があり、時々お祈りの太鼓の音が外
まで聞こえて来ていましたが、現在の場所をネットで見ますと、駅の反対側で、私の記憶
とはどうしても合わないのですが・・。

 田原本町あたり・・



 家の後ろは、我が家の畑が割と広くありましたが、回りは一面たんぼ、畑でしたね。
麦が実る頃、その実をしごいてそのまま口に入れて、噛みながら“チューインガム”のよ
うになるのを楽しんでいたり、稲の頃は、イナゴを取り、稲刈りの後では、タニシなどを
採った記憶もありますね。 ちょっと離れたところに小川があり、川幅は狭いのに水量が
あり流れは早い方でした。そこに、“もんどり”という竹で編んだ仕掛けを入れておくと、
そこにフナ?やナマズが入っていたりしたこともありました。
 幼稚園といっても、昔の寺子屋風の感じだったのではないかという覚えがあり、床に座
布団を敷いて話を聞いたり、屋外では落花生を栽培した記憶があります。戦時中のことで、
食べ物に関することが記憶に多いですね。セロファンにくるまった飴は配給だったそうで
した。

 水は、井戸でしたね。飲み水は、この井戸からくみ上げて大きな甕の上に導き、ろ過し
た水が下から出て来る・・そんな大仕掛けの水設備?でしたし、その井戸の水配管を別角度
にまげると、それは風呂場に通じていました。ふろは、大きくて、これに水を満たすのには、
かなりの重労働?だったのでしょう。  火は、蒔きが主でしたね。風呂もそうですし、
ごはんなどは、おくどさん でしたから、蒔きの貯蔵庫はかなり大きかったですね。それで、
時々、蒔きを作りに来る人がいて、その人を“割木のおっさん”などと呼んだりしていまし
た。 自家の畑では、イモ類とか、マメ類とかかぼちゃなどでしたでしょうか。


 遊びでは、“輪回し”(鉄の輪を鉄の棒に引っ掛けて走りながら輪を回す遊び)が流行っ
ていたことがあり、年少の私もやりたくて、母親におねだりして、なんでも、遠いところま
で母親と一緒に買い求めに行った記憶が残っています。 出来合いの輪回しが売られている
のではなく、ある鉄工所みたいなところで、作ってもらうというのが当時の遊び道具で、
今から思うとユニークというか、贅沢というか・・ちょっと珍しいことだったのです。

 また、夏の夕暮れになると、毎日、トンボツリに出かけていたようです。ガキ大将といっ
しょに何人かと遠くの田原本農学校あたりまでヤンマを追いかけていたのでした。魚釣りに
使う錘(シズ)を黒糸の両側に付けて(歯で噛んでシズをつぶす)それを、赤いセロファン
で包んで仕掛けはでき上がりです。糸の中央を右手指でつまみ、二つのシズを左手指にもっ
て、エイッと天高くその仕掛けを放り上げると、ヤンマは、それが餌(虫)だと思って食い
つくざまに、糸に絡んで舞い落ちてくる・・そんな取り(釣り)かたをしていたのでした。 
取ったヤンマは、左手指に羽を挟んで確保している。

 よく、あちらこちらを歩いていたのですね。友達とか、大体連中は決まっていて、親には
内緒にしていたところもあったようでした。鏡作神社というところも遊び場の一つでした。

         鏡作(かがみつくり)神社
          (ネット画像より)
          

 先ごろのテレビでは、鏡作神社にまつわる伝統芸能「お田植え舞」が保存会の皆さんに
より披露されていましたが、もちろん初めて見るモノでした。当時は、全く知る由もなかっ
たですね。 また、場所は、すっかり忘れてしまっていますが、頼患者の隔離収容所?みた
いなところだったのかもしれませんが、親たちに“近寄るな!”と言われていたところもあ
りましたね。 
 あと、親には内緒で仲間と連れ立って、駅の反対側 少しのところに、“マッチ箱の汽車”
と呼んでいた小型の蒸気機関車のある駅がありました。私らの頃は、ここ田原本から、王子
まで走っているとのことでしたね。 小型ということが面白かったし、機関車にもさわれた
り出来たのでした。 また、この駅の近くに材木の貯蔵池があり、おおきな丸太が、半円に
切断されて浮かべてあるところがありました。この丸太に乗る遊びなんですね。大人に見つ
かると、すぐに叱られますから、2重のスリルがあったのですね。

 大和川にも遊びに行きましたね。かなり家から離れていましたが、そこは、浅い瀬になっ
ていて、水遊びに大勢来ていたり・・のどかでしたね。 戦争中だったのですが。

 戦争では、母親連中がエプロン姿で竹やり訓練をしているのを1~2度見た記憶がありま
す。 B29が編隊で上空を大阪方面に轟音を立ていることもしばしばでしたが、私らの
ところはいつも頭の上を素通りでしたね。焼夷弾とかそのような、爆撃などは一切ありませ
んでした。 ある夏の夜、家じゅうの人々がみんな起こされて、物干し台に上がってみると、
北西の空が赤く燃えているのが見えました。 恐ろしいと感じたのは、これくらいで戦争の
ことはあまり体験的には知らない幸運に恵まれていたのです。

  マッチ箱の汽車 をネットで少し調べてみますと、もともとは、明治44年に田原本鉄道が
免許を取得し、大正7年(1918年)に大和鉄道と名称を変えて新王寺~田原本間で開業した
とあり、軌間1067㎜で、小型の蒸気機関車は定かではありませんが、写真によく似ていた
記憶があります。 戦後、昭和23年には、標準軌に改軌し電化されたとありました。

        サイドタンク式蒸気機関車
         (ウイキペディアより)

 

 現在運行中の田原本線の西田原本駅・新王子駅が、近鉄の他線の駅(橿原線の田原本駅
及び生駒線の王子駅)と離れた位置に存在しているのは、この路線が元々別の会社の運営
する路線であった名残と言え、今でも利用者(特に年配の利用者)の中には、同線を
大鉄(やまてつ)」と呼ぶ者がいる・・と、ありました。

 

 最後に、Eテレでやっていました「俳句大国」では、女優の奈美悦子がゲスト出演して
いて、個人勝ち抜き競技では、音を聞いて、それを感じて即座に作る「即句」で、2位を
取っていました。 奈美さんの句「梅雨の朝 町が聞こえる 通学路」 そして1位は
地元の女子高生の「墨を練る 四肢に流れる 玉の汗」でした。 聞いた音・・というの
は、奈良特産の墨を練る音だったのですね。

 

 

 

 

 

 

コメント
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