薪を背負いながら本を読んで歩く勤勉で働き者の、あの二宮金次郎です。
小学校などに多く建てられていて、私などは近寄りがたい存在として遠くから眺め
ていたようでした。 誰もがよく知っているあの二宮金次郎ですが、ふと我に返っ
てみると、彼についての生涯や人物については私はあまり知らなかったのです。
安政3年10月20日(旧暦)死没とありますから、昨日が命日にあたるのですね。
享年70歳。(新暦では、1856年11月17日)
二宮金次郎
(ウイキペディアより)
ウイキペディアに、生涯などについて詳しい記述がありましたので参考にして、
簡単に触れてみたいと思いました。
二宮金次郎(金治郎)号を尊徳(たかのり)といい、江戸時代後期の経世家、農
政家、思想家である とあります。 現在の小田原市に百姓の長男として生まれます
が、5歳のころ災害で酒匂川が氾濫し家屋、田畑諸共喪失し困窮の中、ようやく立ち
直るも 父の病に金次郎が働かなくてはならず、12歳の時には父が亡くなり、朝は
早起きして久野山に薪をとり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てていた。
困窮の中、2年後に母がなくなるなど不幸が続き、おまけに再び酒匂川の氾濫で
田畑をなくすなどのどん底の生活を過ごしたようです。
その後、農業に励み、身を粉にして働きながら読書を忘れなかった金次郎は、20
歳にして生家を再興し自身は小田原に出て武家奉公をし、勤勉・誠実に勤め次第に
名が知れるようになり、合わせて小田原藩の再興にも尽力するなどの功績を上げた
そうです。
1833年の天保の大飢饉が関東を襲った時も各地で救済に働き、幕府にも召し抱え
られ普請役格となるのです。
二宮尊徳座像(報徳博物館蔵)
(ウイキペディアより)
二宮尊徳は、経世済民を目指して「報徳思想」を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村
復興政策を指導したとあります。 報徳思想とは、経済と道徳の融和を訴え、私利
私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されるとの考え方で、
彼が独学で学んだ神道・仏教・儒教などと、農業の実践から編み出した、豊かに生
きるための知恵だとされているのです。
ちょっと難しくなりますが、二宮尊徳が説き広めた経済思想である「報徳思想」
についてもう少し掘り下げてみます。
至誠(我の心を誠・徳・仁の状態に置く)、勤労(至誠の状態であらゆる行動を
行う)、分度(無駄を排除し贅沢を慎む)、推譲(すいじょう:分度して残った剰
余を他に譲る)の4つを行っていくことによって、はじめて人は物質的にも精神的にも
豊かに暮らすことができるというのが報徳の根本的論理であるというのです。
つまり、これらの至誠・勤労・分度・推譲の実践のなかでいかに徳が徳によって
報われていくかということを見極めることにあり、この実践のなかで初めて理解で
きる言語化できないものこそに報徳の教えの真髄があるというのです。 これを
尊徳は「見えぬ経をよむ」という言葉で示しており、たんに本を読むだけで実践に
つながらない態度を諌めて「たんなる本読み」になってはいけないといっているの
です。
大日本報徳社(公益社団法人)は、この思想の普及発展を目指し、1875年に設立
され本社は静岡県掛川市にあります。
大日本報徳社大講堂(掛川市)
(ウイキペディアより)
冒頭の薪を背負いながら本を読んで歩く姿(「負薪読書図」)は、二宮尊徳の伝
記である「報徳記」(1881年)に初めて書かれたもので、このような姿で実際に歩
いていたという事実があったかは疑問だとありながらも、尊徳の実践した自助的な
農政をモデルとして、学校教育や、地方自治における国家の指導に「金次郎」を利
用して自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開に一
役買った形であるようです。さらには、これらに便乗した石材業者や石工らによっ
て量産され各地に普及したともあります。
余談ながら、1946年発行の1円札には、二宮尊徳の肖像画が採用されていたそう
です。 また、児童が薪を背負って歩く像の真似をして本を読みながら道路を歩く
と交通安全上問題があることから、1970年代以降、これらは徐々に撤去され、像の
数は減少傾向にあるといいます。 さらに、最近では、「歩きスマホ」が社会問題
となっていることを反映して、立像ではなく座像となっているなどの話題がありま
した。
歩く像などでは、華奢な体格に見えていましたが、実際は、180㎝、94㎏の大男で
あったとも言われているようです。
江戸時代後期の経世家「二宮尊徳(にのみや たかのり)」名言10選