先のブログの続きです。
“狂と遊に生きる(一休・良寛)”(久保田展弘著、2000.6)の記述から、その人の背景など・・印象に残ったところの記事、後篇です。
今回は、 “良寛さん” です。 この本の他、ウイキペディアなども参照しました。
良寛(1758年~1831年)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶(禅僧)で、歌人、漢詩人、書家です。俗名を 山本栄蔵 または
文孝(ぶんこう)といいます。号は大愚。
良寛は越後国出雲崎に、地区の名主であった父の四男三女の長子として生まれ、純粋でのんびりとした性格のまま成長し、
名主であった父の後を継ぐ名主見習いの2年目に突如出家(18歳)し、曹洞宗光照寺にて修行をするとあります。
この頃のエピソードに、“出雲崎代官と漁民との間に争いが起こった時、仲裁に入った文考が、双方の悪口雑言を、そのまま
それぞれ相手方に伝え、事態を一層険悪なものにした” とあり、 “そのバカ正直をとがめる代官に、文考は「人を騙すような者が
利口だと言われるような世の中は間違っている」と嘆いた” のだそうです。 それにしても、18歳の青年が父を捨て、名主の跡取り
息子が家を出るという異常とも思える人生に飛び込んだのでした。
しかし、その生涯をたどる手立ては極めて少ないそうですが、それは良寛が禅僧でありながら、いかに宗派や僧籍にこだわる事なく、
ただ民の中で “あるがままに” 生きていたかを物語っていることに他ならないのです。 父は、山本家に婿入りし、名主となるが
もともとその才覚に長けていなく、むしろ俳人「以南」として名が知れるほどで、良寛もこの父に似たところがあるというか、
名主としての経営的センスに欠けるどころか、調停役なども全くできない人であったそうです。
この頃、全国各地に米騒動が頻発し、越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出し、村人の争いを調停し、盗人の処刑に
立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であったとあり、両親の説得にも関わらず、
良寛は頑なに修行を続けたのだそうです。
出家後、22歳(1779年)の時、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を "生涯の師" と定め、師事することにより、
良寛の人生は一変するのです。 良寛という法名もこの時に授かったそうです。
北陸と瀬戸内の陽光を浴びた景色、気候は正反対ともいえる違いがあり、ここでの修行僧のスケジュールは、それこそ厳しい
生活規則の中で、良寛は昼行燈から生まれ変わるのです。 年月を経て、良寛が修行に夢中になっていた時には、たわいもないこと
として見過ごしていた、日常のその一事が、目の前に意味をもって浮かび上がってくるのでした。 自分が、修行という構えを脱ぎ捨て
た時、かの仙桂和尚(座禅もせずに、畑ばかりをしてみんなに食べさせていた)が底知れない意味をもって迫ってくるのです。
厳しい修行の合間には、子供たちと手まりをついたり、かくれんぼしたり、また、行脚の旅に出たり、黙々とした一途な日常を過ごし、
印可を受けるまでになりましたが、その円通寺の住職になるでもなく、33歳の時、円通寺を辞し、ふるさと越後への長い行脚に
出るのでした。 ただ1本の杖と鉄鉢を手に、良寛は禅林という、本来、超俗であるべき世界を離れ、しかも世俗の価値観からも
離脱したのです。 「昼行燈」の栄蔵が、故郷を離れて20年振りに、大愚良寛となって飢饉に喘ぐ越後へと向かうのでした。
錦を飾って帰るわけでも、両手を広げ、友人知人のまえに笑顔で帰郷の声を上げるわけでもなく、世間の価値観で見れば、
敗残者の身なりで・・。
良寛像
(ウイキペディアより)
乞食僧良寛の帰郷は、しかし、生家のある町ではありませんでした。既に両親は他界していて、10人の兄弟も何人かは先んじて
いましたが、弟が後継ぎとしている家にもよらず、それをやり過ごした、海べりの空小屋を転々とした後、国頭山の中腹にある
“五号庵” に入り、そこで亡くなるまでの30年ほどを過ごしたのです。
きてみれば わが故里は 荒れにけり 庭もまがきも 落ち葉のみして
おそらく、自分の生家の前を通った時の思いであったのでしょう。 そして、自らが住む五号庵は、
わが宿は 竹の柱に 菰すだれ
五号庵
(新潟観光HPより)
何となくさびしい、わびしい感じがしますけれども、良寛にとっては、そんな外面的なことに腐心している訳では決してなく、
そこに俗世を超越した信念にむしろ充実した自由な心だったのではないかと思われます。
前編の “一休” と比較しますと、一休は、禅の正当性を直截にいい、現実の教団禅を告発し続け否定しましたが、しかし、良寛は、
居住空間に徹底して寄り添うことによって、自然のありようを平明に歌い、自分の内面を抑制しながら告白し、現実の禅を否定して
います。 一方は、“狂”に傾き、一方は、“遊”に自身を放下しています。
かすみ立つ 長き春日を 子供らと 手まりつきつつ この日くらしつ
子供らと 手まりつきつつ 此のさとに 遊ぶ春日は 暮れずともよし
定住の寺も檀家もなく、常に乞食僧であり、行脚の人であったその人の仏法は、無所有でいて揺るぎない良寛の日々そのもので
あったのです。 良寛がそこにいることによって和気が充ち、その人と語ることによって、こころが打ち解け、和んでくる・・そんな人
なんですね。
生涯懶立身 生涯、身を立つるに物憂く
謄々任天真 謄々、天真に任す
嚢中三升米 嚢中、三升の米
炉辺一束薪 炉辺に、一束のたきぎ
誰問迷悟跡 誰か問わん、迷悟の跡
何知名利塵 何ぞ知らん、名利の塵
夜雨草庵裡 夜雨、草庵のうち
双脚等間伸 双脚、等間に伸ばす
著者意訳は、“将来何をして、どんなえらい奴になろうなんてことは、私の性に合わない。自然に任せ、あるがままに悠然と生きている。
頭陀袋には三升の米があり、囲炉裏の傍には一束の薪がある。それだけでいいじゃないか。迷いだ、悟りだといって、古人のたどった
道をたどるつもりもない。まして、名誉だの利益だのという、そんなことに関わるつもりもない。夜の雨が草庵の屋根を打つ音を聞いて、
二本の脚を思わず前に伸ばしているだけだ。”
こんな良寛にも、後年三人の女性との交流が伝えられています。
60歳になろうとする良寛は、若いころ知り合いであったと思われる7つ違い(下)の維馨尼(いきょうに)を通じて、読みたかった
万葉集の借用を頼んだのがきっかけで、双方、深い恋心に結ばれたそうです。 彼女は、万葉集4千5百余首のうたの中から、
短歌190首を抄出しましたが、その内の三分の一が恋歌である相聞歌で占められていたとか。 彼女のそうした思いが、いつしか
良寛にも熱い思いを抱かせていったのです。 彼女は、また良寛のために献身的な、托鉢に4年間も出たりして、とうとう58歳の
人生を閉じてしまいます。
良寛の晩年5年間を彩る子弟の交わりがあります。長岡藩士の娘は18歳で医師と結婚しますが、離縁して剃髪して貞心尼となります。
幼いころから読書好きで、歌を詠んでいた貞心は、そのころ詩歌や書でも広く名の知られていた良寛に、強い憧れをもっていた
のでしょう。 勝気で、自分の人生を選び取ることに積極的な貞心は、ひとたび良寛に会うや、もう引くことを知らない人のように
接近したそうです。 貞心尼30歳、良寛70歳のときです。
その後、貞心尼は、病床にある良寛を献身的に見守り、心身のすべてをかけて尽くしたのでした。
貞心を待つ良寛は、
いついつと まちにし人は 来りけり 今はあひ見て 何か思はむ
そして貞心は、師匠良寛に、
いきしにの さかひはなれて すむみのも さらぬわかれの あるぞかなしき
さらに、良寛の返歌、
うらを見せ おもてを見せて ちるもみぢ
いのち燃える晩年でした。 享年74歳。
貞心尼は、良寛没後5年後に、必死に集めた良寛歌集「蓮の露」(はちすのつゆ)を編むのです。
良寛に向き合う貞心、貞心に向き合う良寛、この二人の熱い思いがここに収められているのです。
最後に、貞心がほとばしる情熱と、あたりを憚ることを知らないその積極的な出会いは、一気に深まっていったそうですが、
その出会いの歌を・・。
はじめてあひ見奉りて
きみにかく あひ見ることの うれしさも まださめやらぬ ゆめかとぞおもふ
良寛の返歌、
ゆめの世に かつまどろみて ゆめをまた かたるもゆめも それがまにまに
良寛辞世の句
「散る桜 残る桜も 散る桜」
“生家跡には「良寛堂」が建っていて、その中には、良寛が生涯肌身離さず身につけていた念持仏「枕地蔵」が収められている。
石塔に刻まれた句には
いにしえへに かはらぬものはありそみと むかいにみゆる さどのしまなり
とあり、堂の裏手には良寛の坐像がある。”
以下には、良寛の格言、ことばを列記します。全部で90ほどあるようですが、その一部です。
一見すると当たり前のことですが、多くの部分で自分にも当てはまると愕然としてしまいます。
・ことばの多き
・口のはやき
・手がら話
・人のもの言いきらぬ中に物言う
・はなしの長き
・こうしゃくの長き
・自まん話
・物言いのはてしなき
・ことわり(理屈)のすぎたる
・人のはなしのじゃまする
・しめやかなる座にて心なく物言う
・酒にえいてことわり(理屈)言う
・親せつらしく物言う
・物知り顔に言う
・へつらう事
・あなどる事
・人のかくすことをあからさまに言う
・己が氏素性の高きを人に語る
・さしたることなきことをこまごま言う
・役人のよしあし
・子供のこしゃくなる
・おしのつよき
・よく物のこうしゃくをしたがる
・老人のくどき
・口をすぼめて物言う
・品に似合わぬ話
・よく知らぬことを憚りなく言う
・学者くさき話
・風雅くさき話
・人のきりょうのあるなし
・おれがこうしたこうした
・さとりくさき話
・茶人くさき話
・あくびと共にねん仏
前・後編とも、なかなかこなれていなくて、理解しがたいところが多々あったと、誠に申し訳なく思う次第です。 お疲れさまでした。
私自身としては、このお二人の生きようは、時代が違い、その行動や表現も全く違っていますが、人間の持つ業が如何に世を
進めているかという反面、それが迷いの根源となっているという因果に気が付きました。
秋のささやき
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