蝉の恩返し
ソローの『森の生活』に憧れたことがあった。
ウォールデン池のほとりを拠点に、アカリスやふくろうなどの小動物、トウヒや水草など樹木がみせる生命のきらめきを、季節の移ろいとともに淡々と描いた作品だった。
森自体が暗い印象を与えていたかもしれない。
作者の質素な生活ぶりが、隠遁者的なイメージをともなって、読者には少々堅苦しく感じられたような気もする。
それでもウォールデンの森は魅力的だった。
19世紀のアメリカ人が利便と享楽の物質文明を謳歌していたとき、ソローは文明に背を向けてひとり禁欲的な歳月を過ごしたのであった。
「ソローのように・・・・」と、思ったわけではない。
たまたま文明の透けて見える森に暮らしてみて、それでも蝶や蜂や野鳥が訪れてくれることで、同じ生命の羽音を実感することができた。
ある朝、野外で朝食の準備をしているとき、足元の地面に小さな穴が開いているのに気がついた。
よく視ると、底の方に蝉の頭が覗いている。指で触ってみると、ビクッと引っ込んだのでこちらの方がびっくりした。
いままで椅子の下にあった穴である。
来る日も来る日も目の前で火を焚いて、尻の下に敷いていた地面である。
もう、三シーズンは経つが、蝉は四、五年はそこに居たはずで、こちらが森の住人になるより余程前からそこで暮らしていたことに思い至った。
半日が過ぎて覗いてみると、穴はもぬけの空だった。
まだまだと考えていたのに、こちらの思惑は外された。
「まだ、遠くへは行っていないだろう」
推理が当たって、近くにあった野外用テーブルに這い上がっているのを発見した。
「セミさんの食事はこっち・・・・」
摘まんでクヌギの幹に移してやった。まだ飛べないらしく、樹皮に摑まったまま身動きひとつしない。
樹液を吸うどころの話ではなかった。
地上に現れてから数日の命だ。
一刻も早く飛んで、他の蝉のように輪唱に加わらねば・・・・。
お節介にも手を差し出した途端、バタバタと飛び立って隣のコナラの木にしがみついた。
ピッと顔にかかった水滴は、なんだったのだろう。
露や雨粒ではなく、蝉のオシッコだと気がついた。
よりによって、助けた人に引っかけるとは・・・・。
「おまえが助けたというなら、これはおいらの恩返しだ」
雲が切れて、太陽がじりじりと鳴き出した。
油蝉もヒグラシも一緒になっての大合唱だ。
土中から出ようと思ったらそこに椅子があってもうすぐ初老かという夫婦が食事の支度中だった。
蝉くんもびっくりしただろうな。土のぬくもりの中でゆったり日を送っているうちに、地上ではいつの間にか家を建てて、庭に花なんか植えて、えんどう豆なんか作って・・・うーん、それにしてもこの夫婦楽しそうだな。
木陰で憩って、草木がつくる新鮮な空気を肺一杯楽しんで。
土の中もよかったけれど、地上もなかなかいいじゃないか。
男は時々気が向くとパソコンに向かって何か書いているようだが、思いのほか親切で、そっと樹の幹に止まらせてくれた。
ま、気持ちよくこの場所を譲ってやるか。
蝉君は譲ったぞ、と合図に飛びションベン(?)で知らせて目の前の樹の梢を目指して思いっきり飛んだ。
「いつかオレのこと、書いて―」と言い残したかどうか。
こういう森の生活が3シーズン目になるなんて、幸せだね。次の文章も楽しみに待っています。
知恵熱おやじ