差塩と趣味の世界

故郷 福島差塩の想い出と徒然なる盆栽奮闘記

雪虫

2009年11月10日 | 田舎の思い出

いつもの散歩コースを歩いていると雪虫が飛んでいた。頼りない飛翔力ながら健気に飛んでいる様を見ていると、懐かしい思い出が湧いて来た。子どもの頃、この虫が飛ぶようになると雪の季節が近いと嬉々としてこのかわいい妖精を追いかけたものである。アブラムシ云々など知る由もなく、、、

 早速デジカメで撮ってみたが、上手く撮れない。ネットにすばらしい写真があるので御覧下さい。


秋日向

2009年10月28日 | 田舎の思い出

001 いつの間にか部屋には、こんな奥まで秋日が差し込んできました。

 なぜかこんな光景を見ると農作業に一息ついた母が陽光を背に繕い物に励んでいる田舎の1シーンが浮かんでくるのです。来るべき冬の寒さ対策として綻びを繕ったり、刺し子を丁寧に縫っていたりしていたのである。遠い日の想い出である。

刺し子(さしこ)とは、手芸の一分野で、布地に糸で幾何学模様等の図柄を刺繍して縫いこむこと。今では田舎でも見られなくなった。


人絹

2009年08月24日 | 田舎の思い出

 衣類なども当時はなかなか手に入らなかった。売っているのは粗悪品ばかり、特に印象にあるのは人絹やスフといっていたもので出来た製品である。一見光沢がある絹のような感触だが、弱くすぐボロになってしまうような代物であった。母は子たちの衣類調達に苦労していた。今人絹とかスフといっても知らない人が多いが、、、

 そんなわけで継ぎ接ぎだらけの衣服や着物を着ているのが当たり前であった。今日では繕いをした服を着ている子なんて見ることはできない。ファッションとして楽しんでいる若者がいるが、、、?。

 


稗飯

2009年08月20日 | 田舎の思い出

 戦後農家でも貧しい食事をするようになった。特に稗飯が出たときは母に嫌味を言ったものである。兎に角不味かった。(今でこそ5穀飯などと言って健康食として頂くことがあるが)

 《農家でどうして稗飯を、、》と思う方もいるだろうが、当時は強制的に米の割り当て供出制度があり、国が買い上げたのである。ヤミ米に売れば何倍もの値段で売れたが法律で厳しく取り締まった。正直者の父は、自家用の米(保有米といったように思う)を少なくしても国に協力したのである。一反あたり5~6俵位しか穫れない当時、52俵も供出した事があった。そんな訳で麦飯、稗飯、大根飯、芋飯(これは美味しかった)と食べることとなったのである。時には、ご飯の代用食として、水団汁で済ませたこともあった。


復員兵

2009年08月19日 | 田舎の思い出

 赤紙で二人の兄が召集された。内地に召集された兄は敗戦とともにまもなく帰ってきたが、長兄はシベリアに抑留されなかなか帰れなかった。同じ抑留者で早く帰還した隣村の復員兵の話で、兄は大きな事故にあい亡くなったとの情報が伝わる。その時の父母の嘆く姿は今でも忘れられない。

 その後、どのくらいの期間があったか記憶にないが、その情報は誤りとの話になり、暫くして兄は障害者として帰ってきた。理不尽な戦争を憎んだものである。帰還できなかった兵士も村には少なくないし、、、、


墨塗り教科書

2009年08月18日 | 田舎の思い出

 3年生の夏休みが終わると、教科書(当時は国定教科書のみ)に墨塗りをさせられ、原稿用紙を短冊に切ったものを渡され教科書に書き加えて貼って使った。4年生になると新しい教科書を渡された。教科書といっても粗末な新聞紙のような物で切りはりして自分たちで綴じて使ったのである。その中身はどのような物であったか残念ながら記憶にない。今のようなカラフルな教科書を見ると雲泥の差があったことだけは確かである。

  これは後に知ったことであるが、GHQの指令で墨塗り教科書にしたのではなく、国が連合国への配慮で先取りして子供たちにそうさせたと言うことである。その豹変振りに驚くのみである。


敵は幾万

2009年08月14日 | 田舎の思い出

敵は幾万ありとても すべて烏合の勢なるぞ 味方に正しき道理あり、、、

これは運動会の騎馬戦で戦う前に歌った歌詞であり、出征兵士を送るときに歌う軍歌である。小学生に歌わせた当時の世相を伝えている。余り内容は理解していなかったが、勇壮な感じをもったものである。歌詞の3番を紹介しましょう。

破れて逃げるは国の恥 進みて死ぬるは身の誉れ 瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや 畳の上にて死ぬことは 武士のなすべき道ならず むくろを馬蹄にかけられつ 身を野晒しになしてこそ 世は武士の義といわめ などで恐るることやある 

 先生や大人たちそして出征兵士達も、みんなどう思っていたのか、当時の気持ちをタイムマシンにかけて聞いてみたいものである。


風船爆弾

2009年08月13日 | 田舎の思い出

 戦争も末期になると、あらゆる物資が不足してきた。そうした中で考案した兵器の一つに風船爆弾がある。勿来の海岸から米国に向けて飛ばされたのである、当時は秘密兵器だったのだろう。うわさで大人たちが話していたのである。大きな気球に爆弾をつるしジェット気流に乗せて飛ばしたのだそうだ。戦果は誇張(大本営発表と同じで)されたの米国では大きな損害があったと伝えられたように思う。多分悔しさの感情がそうさせたのであろう。


汽車が止まる

2009年08月10日 | 田舎の思い出

 物不足はあらゆることに及んだ。そして質も悪くなっていった。磐越東線は、急勾配のところが多く汽車がよく途中で止まるようなことが多くなったのである。その原因は、石炭の質が悪くなり思いように蒸気が上がらないためである。坂道になるとスピードが落ち止まってしまうのである。幹線を走る汽車(当時鉄道は汽車が主力)と違ってローカル線には質の悪いのを使ったのかな。しばらく止まって蒸気を上げて走り出すのである。今では考えられない光景である。炭鉱も兵隊にとられて人手不足が原因だと大人たちは言っていた。


金属の供出

2009年08月07日 | 田舎の思い出

 連日の空襲で工場は破壊され、生産力は落ちるばかり、物資も全国的に不足してきた。それでも戦車や軍艦を作る必要があったのでしょう。田舎にも、そのために様々な命令が来た。その1つに金物の供出がある。我が家に庭に、近所の人たちが、それらを持ち寄ったのを覚えている。不要{?}な鍋や釜はもちろん、鉄瓶、囲炉裏の柵、自在鍵、リヤカーの車体など山と積まれた。父母が供出すべきか悩んでいた真鋳の自在鍵も結局出したのである。蔵の二階にあった日本刀あれは惜しかったと今でも思う。それらは役立ったのだろうか。定かでない。