差塩と趣味の世界

故郷 福島差塩の想い出と徒然なる盆栽奮闘記

機銃掃射

2009年08月05日 | 田舎の思い出

 戦争末期になると、制空権は完全に米軍がにぎってやり放題であった。空襲警報がラジオで放送されると間もなく南の空にグラマン艦載機が何十機も上空高く編隊を組んで現れ北に向かう郡山近くの飛行場や町をばくげきするためである。20km以上離れても爆撃の音が鈍く聞こえた。悔しくてよく泣いたのを覚えている。その音が消えると間もなく身軽になった敵機は、あちこちの施設を雷のような音を立てて機銃掃射するのである。建物の陰に隠れて見ていたが駅の給水塔をよく狙われていた。当時は汽車が動力源、給水塔が破壊されれば交通マヒになることを狙っていたのであろう。それを防ぐために塗料をぬり縞模様にしていたのを覚えている。日本の飛行機が全く見られないのが悔しかった。

空襲警報でトウブグンカンクジョウホウというのを東のほうの軍艦からの情報とそのころ思っていたが、東部軍管区情報と後にわかる。


灯火管制

2009年08月04日 | 田舎の思い出

 灯火管制、懐かしい言葉である。戦況が厳しくなると田舎でも空襲があるとの情報の元、それらに対処することがいろいろ行われた。その一つに灯火管制がある。空襲警報が発令されると、瀬戸物の電球のかさに黒い布を被せ光が外に漏れないようにしていた。それらを守らせるために互いに監視しあったり、当番を決めて見回りをしたりしていたのである。こうしたことは、レーダーを備えた敵機には全く効果のないことと後になって知ったのだが、同時は真剣だったのである。

 ちなみに当時は蛍光灯などないどの家庭も裸電球、それも1つか2つ、どの部屋にも電球のある家は田舎ではなかった。電球の数と燭光数で電気代を納めていた。誤魔化す家もあり、電気会社が時々見回りに来ていたのを覚えている。


竹やり

2009年08月01日 | 田舎の思い出

 今日から8月か、私どもの世代は8月というと体験的に脳裏に浮かぶのは戦争である。今では笑い話の種になるが、当時は集団催眠に摂りつかれた様に大の大人が真剣に取り組んだことがある。

 その一つに竹やり訓練がある。いよいよ米軍が上陸するとの情報のもと、国民皆兵の考えにより田舎のどの家庭にも竹やりを備えていた。裏山から孟宗竹を3M位に先を鋭く切ったものである。近所の方がそれらを持ち寄り、我が家の庭にあった一抱えもあるグミの木を米兵に見立てて「えっ、!えっ、!」と刺す訓練をしたり、卵の殻に灰を詰めて投げつける練習をしていたのである。それらを遠巻きに見ていたが、真剣だったように子の目に映った。あの時の父母たちの心の中はどうだったのだろう今となっては知る由もない。しばらく、戦争にまつわる体験を記そう


日食観察の想い出

2009年07月16日 | 田舎の思い出

Pict0072  来る22日は、日食観察が出来る。何年ぶりだろうか。小学生のころ、初めて日食観察をした時、先生の指示でガラス片に煤をつけてみた事が想い出される。田舎では、このガラス片を見つけるのが大変であちこち情報を集めてようやく手にした記憶がある。

 何しろ物のない時代、ビンやガラス片、ゴム靴の破れたの等は貴重品でくず屋が買ってくれたので、あちこちに公徳箱「懐かしい言葉」を設け、そこに集めて売ったのである。ガラス片の収集に苦労したのは何某かの金額を手にした後だったのであろう。当時はガラス片で覗くと眼に良くないなどと誰も言わなかった。周辺が暗くなり、冷たい風が吹いてきて子供心に畏怖の念を感じたのを記憶している。来る日食には、木漏れ日の影が丸ではなく三日月になるのというので是非撮ってみたいものである。


ホタルブクロ

2009年06月11日 | 田舎の思い出

Dsc  草花の中には、それを見るだけで幼き日々を思い出させるものが多い。このホタルブクロもその1つである。その名からして何か夢があるし、蛍を捕まえて花の中に入れたこと(暗闇の中、花の中で光る幻想的な光景)や萎れた花に息を吹きかけ風船のようにしてパーンと割ったりして遊んだことなどのシーンが浮かぶのである。最近山野草を楽しまれる方が多くなってきたと言われるが、こうした草花にまつわる幼い日の思い出も大切にしていきたいものである。我が家の池の周りに咲いたホタルブクロ


小川が消えた

2009年05月28日 | 田舎の思い出

Photo  村境の峠にさしかかると、生まれ育った故郷には不思議な力があるもので、3年前に帰省したばかりなのに懐かしい感情がこみ上げてくる。峠を下りあたりの視界が開け田畑やあちこちの家屋敷が薄暮の中に見え隠れすると一層その感が高まる。啄木ではないが、故郷は本当に有難いと思う。

 そんな気分で車を走らせていると、私の目を疑う光景が現れた。田毎の月云々のような小さな田んぼは、写真のように広々とした水田になり、そこを流れていた筈の小川は消えていた。車を止めあたりを見回し、しばし呆然、、、そうです。山間の1寒村にも近代化の波は押し寄せ、土地基盤整備事業が着々と進められているのでした。

 翌朝あらためて田んぼに出かけてみました。ドジョウを掬った淀みも、春をいの一番に告げたネコヤナギの土手もセリを摘んだ小さな流れも、、、何もありません。あるのは大小様々なU字溝の幾何学的な線とそこを排水だけを目的とした水が無表情に流れているだけでした。   (20年前に記した文より)

  数年ぶりで帰省するが、今度はどんな想いをするのかな、、、、


端午の節句

2009年05月05日 | 田舎の思い出

Dsc01064  子供の日、どこの家庭でも子供たちの健やかな成長願い色々な催しをしていることだろう。少子化といわれる今日、大切にしたい祝日である。

  「かしゃっぱとってこい」節句が来るとこんな母の命令で2kmほど離れた一本ブナ(で一番高い山 30kmほど離れた海が見える)に兄と出かけ柏の葉を摘むのである。の子達が誰もが摘みに来ていた。父は蓬と菖蒲を屋根の軒に指し、高々と鯉幟をたてる。手作りの柏餅を食べ、菖蒲湯につかるのが節句を祝う田舎での慣わしであった。行事はみんなが何某かの役割をして一家で祝ったものである。そうそう柏餅の具が単なる味噌の時もあった。砂糖の無い戦時中は、、、、

 我が家では、そんな思い出に少しでも近づこうと柏の木や菖蒲・蓬(これは雑草として)を植えている。写真は柏木


天長節

2009年04月30日 | 田舎の思い出

017  昭和の日?、、私にとっては天長節というのが一番ぴったりする日である。子供のころすり込まれたことは消えない。今でも、この祝歌が出てくる。

 きょうのよきひはおおきみのうまれたまえしよきひなり、、、♪♪

 普段継ぎ接ぎだらけの着物であるのに、この日ばかりは一張羅の晴れ着を着て登校し、校長先生の教育勅語を厳粛な気持ちで聞いたのである。そういえば、教育勅語も3年生の時暗唱させられた。

ちんおもうにわがこうそこうそくにをはじむることこうえんにとくをたつることしんこうなり、、、、めいじ23ねん10がつ30にちぎょめいぎょじ。

 こうした歌や詩が、今はなき我が家の学校とともに蘇ってくるから不思議である。昭和の日の想う。

 


野焼き

2009年02月17日 | 田舎の思い出

 あちこちで野焼きのニュースが報じられている。野焼きで想い出すことに、田舎の茅場焼きがある。当時は茅葺き屋根が当たり前であった。従って、わが家では専用の茅場を持っていた。質の良い茅を育てるには、今頃茅場を焼くのである。

 父の判断では、風の無い夕刻、近所の子ども達をも動員して茅場に向かい火を放つのである。1ヘクタールほどの広さでもあっという間に燃えてしまうが、春先の愉しい行事の一つであった。その様は、赤々と燃える炎と伴に脳裏に浮かぶ。今ではトタン葺きで、茅場はすっかり荒れてしまっていて当時の面影はない。

 


節分

2009年02月03日 | 田舎の思い出

 田舎では、様々な伝統行事を大切にし、その家なりに行っていた。節分、夕刻になると、あちこちの家から大きな声で豆まきの声がステレオのように聞こえて来た。 どうしたことかわが家では何時も遅かったように想う。子供心に『うちでも早くやってくれないかな』と思ったものである。 

 豆まきは、正月の若水を汲むのと同様、その屋の長男がする習わしだった。わが家は、兵隊に行っていたので次兄がやっていた。家の座敷のすべてにまくと、外に向かって『鬼はー外』とまくより投げつけていた。あちこちの座敷にまかれた豆を兄弟で争って拾い食べるのが楽しみであった。豆がら(柊でなく)に鰯の頭を刺したものをあらゆる門口にさして鬼がこないようにした。

 父母はどう関わっていたか定かでない。この行事が済むとなぜか安心した懐かしい想い出がある。