僕たち夫婦は結婚して25年になる。何か、記念に残る旅行をと思い、妻とはトワイライト エキスプレスかカシオペアの豪華寝台特急で北海道と相談していた。しかし、なかなか切符が取れないということで、別の案を二人で考えていた。そこで、銀婚旅行だから、今までに行ったことのない所に行こうということにし、沖縄に決めた。それから2か月あまりが経って、12月26日から29日まで、3泊4日で沖縄に行った。
<12月26日>
26日10時45分、中部発那覇行きANA(エア・ニッポン)に乗り、沖縄に向かった。那覇空港に着いたのが1時30分頃で、とにかくお腹がすいたので、空港に着いてすぐ、空港内の「たぬき」で、まずは人気の沖縄そばを食べた。めずらしく、2人とも同じものを注文した。沖縄そばは、スープの味はばつぐんにおいしかったが、どうも焼きそば用の麺みたいな食感 に不自然さを感じた。
空港を出てすぐに、ゆいレール(モノレール)の1日乗車券を600円で買い、宿泊先のおもろまちに行き、駅のすぐ近くの東横ホテルに荷物を預けた。そしてすぐにまたゆいレールで首里に向かった。
首里駅からすぐ近くに首里城があると思っていたが、駅には「首里城行きバス乗り場」の標示があった。あまり近くではなさそうだ。標示に従って歩いていると、タクシーの運転手さんが声をかけてきた。
「タクシーなら、500円で首里城の入口までいけるよ。」
2人で相談して、バス代2人分とそう変わらないかもしれないし、入口まで行けるのなら ということで、タクシーに乗ることにした。実は、これが大正解だった。着いて分かったのだが、首里城のバス停からは坂道をずいぶん歩かなければならなかったのだった。
タクシーは、首里城の入口、ちょうど朱礼門朱の前に着けてくれた。
首里城の城壁を見た瞬間、妻が、
「万里の長城みたい」
と、っくりしたような声で言った。まったくそのとおりで、日本の城壁とはまったく異なってい た。城壁の門をくぐってしばらく歩くと、真っ赤な首里城が見えた。もちろん日本の天守閣とは全然異なり、大きなお寺を琉球風の建て方にして、真っ赤に塗ったという感じで、なんとなく中国風の建物だった。日本以上に中国の影響を受けているため、日本の城とは全く異なる城になったのだろう。日本の文化と琉球の文化の違いは大きいものだと感じた。
中に入ると、琉球の歴史がよく分かるような資料館になっていた。独自の社会を形成してきた琉球王国は、明治政府によって廃藩置県の一環として日本に併合されたのだった。
見る物見る物全てがめずらしく、一つ一つの資料に夢中になってしまった。
突然、
「先生。」
と言う声が聞こえた。妻の学校の子どもだった。家族旅行で沖縄を訪れていて、この日に 帰るとのことだった。本当にめずらしい偶然だ。
お土産のコーナーで沖縄染めのハンカチや琉球の文字が入ったTシャツなどを買い、1万円札で支払ったら、おつりを2千円札でくださった。
「朱礼門があるから?」
と尋ねると、店員さんは、
「はい、そうです。」
と答えた。朱礼門が図案となっている2千円札を、もっと出回らせてあげたい気分になった 。
城壁の写真をいっぱい写真に撮って、門を出た。そして、2千円札の朱礼門を見てから、タクシーでゆいレール首里駅に戻った。
ゆいレールで一度ホテルに戻り、チェックインを済ませて、晩ご飯を食べに国際通りに行った。土産物屋さんに混じって、アメリカン・グッズを扱う店や、アメリカ風のレストランなどが立ち並ぶにぎやかな通りは異国情緒が感じられた。
ガイドブックに載っていたステーキ・ハウス「碧」を見つけ、沖縄牛のステーキ・コースを食 べた。目の前で女性スタッフが焼いてくれるスタイルは、新婚旅行で行ったロスのステーキ・ハウスを思い出させてくれた。
<12月27日>
27日の朝、おもろまちDFAにあるトヨタ・レンタカーで、今回の旅の足となるbBを借りた。レンタカーと言えば地味な色が多く、きっと白かシルバーだろうと予想していたが、用意されたbBは鮮やかな黄緑色。理想は黒いbBだったが、鮮やかな色のbBもなかなかいい感じがした。bBは、コンパクトカーの中で僕の最もお気に入りのクルマだ。
那覇ICから高速道路で一気に許田まで走った。小さなクルマだが、走りはなかなかいい。周りの木々が、本州とは明らかに違う。12月なのに、熱帯植物が道路の両脇に生い茂っている。大袈裟に言えば、南方にある日本語の通じる左側通行の外国だ。
沖縄道最終の許田ICを出て、最初の目的地「美ら海水族館」に行った。曇り空で天気は よくなかったが、なぜか海の青さは素敵だった。お目当てのジンベイザメの雄大な泳ぎを見てびっくりし、巨大なエイの泳ぐ姿に思わず「かっこいいなあ」と声が出てしまった。
お昼は、水族館の近くのホテルのレストランで「そうみんチャンプルー定食」を食べた。「そうみん」はそうめんのことで、味は焼きビーフンのようだった。
お腹もいっぱいになり、次の目的地の今帰仁城(なきじんぐすく)」に向かった。
ここでも城壁が万里の長城みたいで、琉球王朝の勢力の強さを感じた。海の見える高台に、丘全体を城壁が囲んでいて、ミニ万里の長城のようになっていた。その城壁に囲まれ た美しい丘と青い海とのマッチングに、胸が高鳴った。2人で、ずいぶん長い間その始めた見る風景を楽しんだ。
城跡に最も近い駐車場には小さな店が並んでいた。店に並んだ色とりどりのソフトクリームがすごくおいしそうに見えた。城跡をずいぶん歩いたので、真冬なのに暑い。思わずソフトクリームを買ってしまい、一人でぺろぺろなめていた。妻は「いらない」と言って買わなかったが、僕が食べているのを見て、
「一口、ちょうだい。」
と言うので、本当に一口だけ、食べさせてあげた。真冬にソフトクリームというのも、沖縄ならではのことだ。
次に、名護パイナップルパークに行った。パイナップル畑は、もちろん今までに一度も見たことはない。そもそも、パイナップルが地面から生えていることでさえ、大人になってから知ったくらいだ。子どもの頃は、パイナップルの木の枝から実がぶらさがっていると信じていた。
名護パイナップルパークでは、パイナップル畑や南国の花畑などを自動運転のカートで 見学することになっていた。カートは、カーブになればスピードが落ち、勝手にハンドルが回って絶妙な動きで正確にカーブを曲がって行く。その仕組みが気になりました。「YAMAHA]のロゴが入っていたので、家に帰ったら調べてみようと思った。
パイナップル畑では、パイナップルの小さな実がついているのを見て、確かに枝から実がぶら下がっているわけではないなり方をしていて、なんだか不思議な感じがした。
カートを下りると、ひたすら店の中を歩いて出口に向かうようになっていた。団体客が試飲コーナーに集中するため、なかなか前に進めず、結局、人と人の間を2人でかき分けかき分けしながら、何も買わずに出口まできた。
この日の最後の目的は、美しいビーチを見ることだ。ガイドブックに付いていた地図を広げ、聞き覚えのあるビーチを探した。そして、目に止まったのがオクマ・ビーチだ、少し距離があるが、一本道だし、道もすいているのでそれほど時間はかからないだろう。
R56を北に走り、国頭村に入った辺りにオクマ・ビーチの案内標識があった。その標識 に従ってbBを走らせ、ビート脇の林にクルマを止めた。堤防を登ると、そこには期待どおりの素敵な浜辺が続いていた。その砂浜には人っ子一人いない。浜を歩くと、その後ろには僕たち2人だけの足跡が残る。妻は、きれいな貝殻を見つけては、僕に見せてくれた。僕は、浜から見える景色をカメラに収めていた。天気が良ければまさしく「青い海・青い空」が満喫できたはずだ。
沖縄のビーチを十分に楽しんで、再び名護に戻り、許田IC近くのホテル喜瀬ビーチパレスにbBを止めた。
沖縄牛すきやきを食べ、7階の部屋のテラスでくつろいだ。雨がパラつきだし、外は少し肌寒い感じもしたが、Tシャツ姿でいられるくらいだった。テラスで、妻のお煎れたコーヒーを飲みながら、夜の海を眺めていた。
<12月28日>
朝から雨が降っていた。美しいはずの喜瀬ビーチの眺めを楽しむことはできなかったが、天気ばかりは仕方がない。
許田ICから南に向かい、豊見城ICで下りてひめゆりの塔に行った。碑の下には、大きな穴が開いていて、本当はまだまだ死にたくないのに亡くなってしまったひめゆり部隊の少女た ちの霊が今もなお漂っているように思えて、なんだか怖くなってきた。僕はただただ手を合わせるしかできなかった。正直言って、資料館では恐ろしくてあまり見ていられなかった。大勢亡くなったのは師範学校の生徒たちだ。存命であれば、僕の大先輩になっているはずの人たちだ。資料館には、教育実習の写真も展示してあった。資料館を出て、もう一度碑の前でしっかりと手を合わせ、駐車場近くの土産物屋さんへと急いだ。
沖縄に来てずっと気になっていたのが、どの家にも門や屋根にあるシーサーだ。いっぱいいっぱい見ているうちに、欲しくなってきた。妻にそのことを話すと、
「いいじゃん。大きいの、買お。うちの門に着けようよ。」
と言う。妻も、シーサーを欲しがっていたのだ。2人でどのシーサーにしようかあれこれ選んで、ちょっと大きめのシーサーを買い、宅配で家に送った。家に帰ったら、門に着けよう。
次に行ったのは、琉球ガラス村。入った瞬間、「きれいだなあ」と思った。特に、コップ類の色は透き通るような美しさだった。昨日泊まった喜瀬ビーチパレスのウェルカムドリンクのコップとよく似た赤いコップもあった。欲しいと思ったコップもあったが、帰りの飛行機に乗るときの荷物になることを考えると、ガラス製品はやめておいた方がいいような気がした。妻も気 に入ったコップがあったようだが、買うまでにはならなかったようだ。
ひととおり見て回ってから、お昼ご飯にした。食べたのは「タコライス」。タコスのご飯で、だいたい想像したとおりのケチャップ味だった。
それから東に向かい、斎場御嶽(せーふぁうたき)を見学した。だいたいの場合、日本語は文字からなんのことなのか想像がつくが、「斎場御嶽」という文字からは、それがいったい何なのか全く想像がつかない。琉球時代にえらい人のお葬式をした所なのか、それとも戦で捕らえられた反乱軍の兵士たちの牢屋なのか、そんなようなことを想像し、なんとなく地獄のような怖そう場所に思えた。そうは思うものの、そもそも読み方さえも分からないの だ。
斎場御嶽の資料館に入って、そこが琉球王国の聖地だったということが分かった。なんとなく、イスラムのメッカとか、神道のお伊勢さんとか、そんなことをイメージした。妻は、
「そうかなあ、ちょっと違うんじゃない。そうかもしれないし。」
と言うが、少なくとも、地獄のような怖い所ではなさそうだ。
薄暗くて狭い石畳の坂道を傘をさして登っていった。そして、すべりやすい山道を5分ほど登ると、大きな岩ばかりの平地に着いた。その平地の端にある大きな岩の隙間から真東の海が見渡せるようになっていた。朝になると、その隙間から太陽が上がってくるのが見える ということだ。古代世界のいろいろな人たちと同じように、琉球王朝も太陽を神として崇めていたのだ。平地の周りにある大きな岩の上の木々は岩伝いに根を伸ばし、岩そのものに細かな根によって複雑な模様が刻まれているように見えた。まさしく、ここが琉球のメッカ、伊勢、ローマ・・・、そんな感じだったのかもしれないのだ。
次に向かったのが「おきなわワールド・玉泉洞」だ。園内に入るとすぐ玉泉洞という洞窟に入ることになる。これがまた大規模な鍾乳洞で、岐阜県や静岡県に点在する鍾乳洞の比では ない。洞窟の中では、太い柱のような巨大化したつらら状の鍾乳石が何本もあったり、ものすごく細かいつららが天井から一面に何万本と垂れていたり、この世のものとは思えない神秘的な雰囲気に包まれる。そうした存否的な自然の造形の中を、延々と1㎞近い距離を歩くのだ。これまでに見た城(ぐすく)の城壁がすべて石灰岩が積み上げられてできていたことを考えると、実際には、沖縄本島全体が石灰岩の上に乗っているような感じがする。だから、その下には広大な空洞が所々にあるのではないかと思えてきた。
鍾乳洞を抜けると、日本の江戸時代の琉球の城下町の風景にで出会う。当時の建物がいくつも移築され、多くは県や国の文化財に指定されている建物だった。その貴重な建物の中で、いろいろな体験ができるようになっていた。妻がどうしても何かやってみたいと言うので、機織りと紅型(びんがた)染めの体験に挑戦した。
機織りは、木製の枠のような物をバッタン、バッタンと動かして、糸を1本1本編んでいく。 スタッフの方がていねいに教えてくれたので、美しい織物のキーホルダーが出来上がった。僕はそれほど乗り気ではなかったが、やってみるととてもおもしろく、
「次、紅型(びんがた)染めをやろうよ。」
と言う妻の言葉に、すぐに乗ってしまった。
紅型染めは、布の上に型紙を置いて、その上からトントンと軽く叩くようにして色を着けていく。2人とも沖縄らしい花の模様の型紙を選んだ。そして、配色を考えながら、トントンと色付けをしていった。2人とも夢中になってしまい、ほとんど無言での作業になっていた。10日ほど乾かしてから水で洗い流すと出来上がりとのことで、スタッフの方にていねいに袋に入れてくださった。
これまでに、僕は旅先でこうした体験活動をすることはなかった。だから、はじめはすごく躊躇したが、やってみたらすごく楽しいものだった。「やろうよ」と誘ってくれた妻に感謝だ。その他に、「おきなわワールド」には、ハブ館などもあったが、ヘビが大嫌いな僕は、当然パスして通り過ぎた。
おきなわワールドを出て、南城のホテルに向かってbBを走らせていると、「糸数城(いとかずぐすく)跡」の案内標識が目に入った。まだチェックインの時間には早いので、ちょっと寄 り道をすることにした。狭い砂利道を走ると、崩れかけた城壁があった。その城壁のすぐ脇にbBを止めたが、周りにはだれもいない。
「いいのかなあ、ここに止めて。」
「いいんじゃない。このぐちゃぐちゃな所が駐車場じゃないかなあ。」
糸数城跡も、首里城や今帰仁城など、これまでに見た城跡と同じように万里の長城風の長い城壁が続いていた。しかし、ほとんど調査の手が入っていないため、所々大きく崩れた状態で連なっているのだ。「危険」「登るな」などの看板に混じって、城跡の説明が書かれている看板があった。読んでみると、この城跡の記録が記された文献がまったく無いとのことだった。発掘はまだまだこれからということで、遺跡として出てきたままの姿の城跡で、観光地化された首里城や今帰仁城よりずっと興味深かった。
沖縄旅行最終日の夜はユインチ・ホテル南城で、湾に広がる南城市の高台にある大きな ホテルだった。夜になると、ベランダからは南城市の夜景が一望でき、今日もまた夜のコーヒーを屋外で飲んだ。とても真冬とは思えない。
<12月29日>
bBを空港近くのトヨタ・レンタカーに返すのがお昼過ぎくらいなので、それまで少し本島南部を散策することにした。
まずは平和祈念公園。この日から年末年始休みに入ったため資料館などは閉館になり、人もまばらだった。沖縄決戦で亡くなった方々の碑が見渡す限り並べられていて、その悲 惨さが、一つ一つの碑から伝わってくるようだ。ひめゆりの塔で感じた怖さをここでも感じてしまった。本当は、悲惨な現実から目をそらしてはいけないと思う。しかし、平和な世の中しか知らない僕は、その悲しみから逃げ出したい衝動にかられていた。もちろん、逃げてはならないことは分かっている。
そして、今回の旅行最後の見学地を最南端の岬・喜屋武岬とした。カーナビの指示に従ってbBを走らせると、サトウキビ畑の間を抜ける狭い道をあっちに曲がったり、こっちに曲がったりを繰り返し、しだいに岬に着けるのかどうか不安になってきた。
狭い道の行き止まりになった所が喜屋武岬だった。この日だけは青空が広がったいい天気だったので、高い崖の上から美しい海と海岸を見渡すことができた。いかにも沖縄の海という感じがしてとてもすてきな岬だ。そこにいるだけで気持ちがいい。その素敵な風景を見ていると、あと数時間で沖縄を去っていくことがつらくなってくる。しかし、ここも沖縄戦で多くの人 が自決した悲しい出来事があった場所の一つなのだ。
年末で混雑した糸満市の市街地を抜け、空港近くのトヨタ・レンタカーの営業所でbBを返し、マイクロバスで空港に向かった。少し前に起きたアメリカのテロ未遂事件の影響で荷物検査が厳しくなっているとのことだったので、早めに空港に着くようにした。ところが、空港のロビーはとてもすいていて、荷物の検査もさっさと済ませることができた。あまりにもスムーズに進むので、ちょっと拍子抜けしたほどだ。そこで、お昼ご飯を食べ終わっても、まだまだ時間がある。そこで、時間潰しに屋上に上がって離陸する飛行機を眺めることにした。これがまたおもしろくて、あっという間に時間が過ぎていった。
午後3時発のANA(エア・ネクスト)中部行きに乗って家路に就いた。1時間くらい経って「屋久島が見えます」のアナウンスがあった。
「えっ、まだ屋久島なんだっ て。」
隣で眠っている妻に小声で言った。つくづく、沖縄は遠いということを実感した。
中部空港が近づいた時、飛行機から見た夕日がとてもきれいだった。
僕は、今回の3泊4日の沖縄の旅で、琉球文化と沖縄決戦の2つの顔を見てきたように思う。そして、国際都市と南国の美しい自然にも少しだけ触れることができた。北海道大好きな僕は、沖縄がこれほど魅力的な所とは思ってもみなかったが、沖縄には、北海道にはない全く異なった魅力がいっぱいあふれていた。また機会を作って、行ってみようと思う。