今日は、おそらく最高気温が38度か39度ぐらいあって、いままで生きてきた中で一番暑かったです。体温より高い空気は、まったく読む努力を必要としない。こんな熱さでは、皮膚が焼けてしまう。
大穴牟遅神に帒を負せ、従者と為て率て往きき。 是に、気多の前に到りし時に、裸の菟伏せり。 尒して、八十神其の菟に謂ひて云ひしく、 「汝為むは、此の海塩を浴み、風の吹くに当りて、高山の尾の上に伏せれ」といひき。 故、其の菟、八十神の教に従ひて伏しき。 尒して、其の塩の乾く随に、其の身の皮悉く風に吹き折えき。
それにしても、神の子どもたちもオオクニヌシのあたりまでくると、完全にザコばかりである。いまの世の中で、いちばん多いのがこのザコによるハラスメントであり、だれかが確か「ザコハラ」と言っていた。そもそも、神が神を生むシステムがあやしい。いまの人間みたいに、コピーを作るという手続きを踏まずに、刃物を噛んでしぶきから作るとか、そんなやり方ではほとんどザコが生じるに決まっているのではなかろうか。
それはともかく、オオクニヌシのお兄さんたちは、国を治める(政治)よりも因幡のかわいい子ちゃんと結婚する方を選んだザコで、そもそもその選択が頭が悪すぎる。このあと、そのかわい子ちゃんはオオクニヌシと結婚する方向になるのだが、兎と鮫の件がなくても当たり前である。オオクニヌシはちゃんとした政治家で、ほかの兄弟は、神の子どもたちという血統はあるが、すべての政治権力を手放しているのであって、そんな将来の保証がないザコと結婚したりするであろうか?
そういえば、竹取物語でも、帝を含めたザコ皇子たちはことごとくお姫様にふられているではないか。帝の別れのときだけこれ見よがしに文学的に急激に上昇するその物語は、やはり日本の権力構造の内部に巣くう有象無象を月からの視線で殲滅することにあったのである。
上の神々が多くの数がいるにも関わらず、合議したかのようなイジワルを与えていることは重要である。ザコはひとまとめにしてバカにしてよろしいのであった。更に、そのザコっぷりを表現するに、因幡の白兎の挿話は、裸の兎に海水を浴びせて山で乾かすという拷問を以て表現しておる。話者は、この輩たちを決して許すなと言っているのであった。
伏野に寝てる
因幡の白兎
ピヨン ピヨン
八十神様の
来ない来ないうちに
ピヨン ピヨン
身干山へあがれ
――野口雨情「因幡の白兎」
確かに!