★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ザコたち

2020-08-16 23:03:17 | 文学


今日は、おそらく最高気温が38度か39度ぐらいあって、いままで生きてきた中で一番暑かったです。体温より高い空気は、まったく読む努力を必要としない。こんな熱さでは、皮膚が焼けてしまう。

大穴牟遅神に帒を負せ、従者と為て率て往きき。 是に、気多の前に到りし時に、裸の菟伏せり。 尒して、八十神其の菟に謂ひて云ひしく、 「汝為むは、此の海塩を浴み、風の吹くに当りて、高山の尾の上に伏せれ」といひき。 故、其の菟、八十神の教に従ひて伏しき。 尒して、其の塩の乾く随に、其の身の皮悉く風に吹き折えき。

それにしても、神の子どもたちもオオクニヌシのあたりまでくると、完全にザコばかりである。いまの世の中で、いちばん多いのがこのザコによるハラスメントであり、だれかが確か「ザコハラ」と言っていた。そもそも、神が神を生むシステムがあやしい。いまの人間みたいに、コピーを作るという手続きを踏まずに、刃物を噛んでしぶきから作るとか、そんなやり方ではほとんどザコが生じるに決まっているのではなかろうか。

それはともかく、オオクニヌシのお兄さんたちは、国を治める(政治)よりも因幡のかわいい子ちゃんと結婚する方を選んだザコで、そもそもその選択が頭が悪すぎる。このあと、そのかわい子ちゃんはオオクニヌシと結婚する方向になるのだが、兎と鮫の件がなくても当たり前である。オオクニヌシはちゃんとした政治家で、ほかの兄弟は、神の子どもたちという血統はあるが、すべての政治権力を手放しているのであって、そんな将来の保証がないザコと結婚したりするであろうか?

そういえば、竹取物語でも、帝を含めたザコ皇子たちはことごとくお姫様にふられているではないか。帝の別れのときだけこれ見よがしに文学的に急激に上昇するその物語は、やはり日本の権力構造の内部に巣くう有象無象を月からの視線で殲滅することにあったのである。

上の神々が多くの数がいるにも関わらず、合議したかのようなイジワルを与えていることは重要である。ザコはひとまとめにしてバカにしてよろしいのであった。更に、そのザコっぷりを表現するに、因幡の白兎の挿話は、裸の兎に海水を浴びせて山で乾かすという拷問を以て表現しておる。話者は、この輩たちを決して許すなと言っているのであった。

伏野に寝てる
因幡の白兎
   ピヨン ピヨン

八十神様の
来ない来ないうちに
   ピヨン ピヨン

身干山へあがれ

――野口雨情「因幡の白兎」


確かに!

八雲立つ空間

2020-08-15 19:54:09 | 文学


故是を以ちて其の速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。爾に須賀の地に至り坐して詔りたまひけらく、「吾此地に来て、我が御心須賀須賀斯。」とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀を云ふ。

いま須賀のあたりをグーグルアースで覗いてみると、あんがい山の方であって、ここで「すがすがしいなあ」と思うというのは、――彼の引きこもり気質を示しているようで面白いと思うのである。考えてみりゃ、ヤマタノオロチの件の時も、川に箸が流れてきたので、遡ってみたという、山好きである。彼はもともとお母ちゃんに会いたいという感じの人であって、坂口安吾のように、海を見て女を感じるみたいなおかしな人を除けば、ふつうは、山に懐かれてみたいなのが母なるものに接近することではなかろうか。羊水に懐かれてみたいのは、近代人の後付けだと思うのだ。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

八、という字は神秘的なものらしいんだが、ふつうに考えて山の形である。この歌を二メートル離れて見てみよう。妻を囲んだ「八」(山)が並んでいるとしか見えないではないか。入道雲、八重垣はだめ押しに過ぎない。

そういえば、小泉八雲は上の八雲からとったらしいし(ハーンの「ハ」が「八」に似てるしね……)、妻も出雲藩士の娘だった。彼の文学についてはよくわからん……。彼がドルイド教を信奉してた方にわたくしは興味がある。要するに、このひとはジャーアナリストというかんじではなかろうか。

そういえば、わが田舎の南の方にも妻籠というところがあるが、これは、上のものとは関係あるという説は聴いたことがない。

十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。
 文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗な鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉は是非御飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖を突いたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時始めて気がついた。
 すると三分ばかりして、今度は籠を御買いなさいと云いだした。


――漱石「文鳥」


帝大の英語教師ハーンの後任であった漱石のこの作品はたぶん、近代日本を代表する作品の一つで、ここでは八重でなく、三重吉がでてくる。籠の中には妻ではなく文鳥がいる。スサノオの壮大さに比べ、この半端な囲われた空間で、文鳥が死ぬ。娘が墓を建てた。

しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋るんだ埋るんだと騒いでいる。庭掃除に頼んだ植木屋が、御嬢さん、ここいらが好いでしょうと云っている。自分は進まぬながら、書斎でペンを動かしていた。
 翌日は何だか頭が重いので、十時頃になってようやく起きた。顔を洗いながら裏庭を見ると、昨日植木屋の声のしたあたりに、小さい公札が、蒼い木賊の一株と並んで立っている。高さは木賊よりもずっと低い。庭下駄を穿いて、日影の霜を踏み砕いて、近づいて見ると、公札の表には、この土手登るべからずとあった。筆子の手蹟である。
 午後三重吉から返事が来た。文鳥は可愛想な事を致しましたとあるばかりで家人が悪いとも残酷だともいっこう書いてなかった。

スサノオとヤマタノオロチ――大きさの比較を中心に

2020-08-14 23:38:25 | 文学


其の足名椎・手名椎の神に告らししく、「汝等、八塩折りの酒を醸み、 亦、垣を作り廻らし、其の垣に八門を作り、 門毎に八さずきを結ひ、其のさずき毎に酒舩を置きて、 舩毎に其の八塩折りの酒を盛りて待て」とのらしき。 故、告りたまへる随に、かく設け備へて待つ時に、 其の八俣遠呂智、信に言の如来つ。 乃ち舩毎に己が頭を垂れ入れ其の酒を飲みき。 是に、飲み酔ひ留まり伏し寝ねき。 尒して、速須佐之男命其の御佩かせる十拳釼を抜き、 其の虵を切り散らししかば、肥河血に変りて流れき。

スサノオは天上界から追放された。で、出雲国にやってきた。で、ヤマタノオロチの生贄になってしまうといって泣く娘と老夫婦に出会う。この老人も一応オオヤマツミという神の子孫であって、まあそういうんだったら神である。スサノオはここで卑怯な手を使う。娘があまりにかわいいので、ついヤマタノオロチは俺に任せろ、そのかわりに娘を嫁にもらう(ちなみに、おれはアマテラスの弟である。本質的なことじゃないが、一応言っておくわ)ぞ」と言い放ったのである。考えてみると、神の子たちが、いかに小物化していると言っても、神であって、彼らがその圧倒的な力を恐れるバケモノがヤマタノオロチなのである。ここで、わかるのは、娘が捧げられかかっているバケモノを消去しそこに同等の自分が入れるという短絡である。いや短絡と言うよりも、ヤマタノオロチ並みの怪物の存在は、どうやらアマテラスやスサノオのレベルと同等なのであった。考えてみると、この蛇神だか大洪水だかしらんが――そういうものは、確かに、天で圧倒的な光を放っている存在だとはいえ、指の二節ぐらいしかない太陽とくらべてもものすごいでかさなのであるし、スサノオが台風の如きものだとすると、洪水はその副産物みたいなものだ。台風対洪水、よく分からん対立であるが、台風がちゃんと振る舞えば、洪水がなくなるのは当たり前であり、当然、ヤマタノオロチは制圧されました。

――以上のような妄想を誘う程、ナンセンスな挿話であるが、蛇の神は四国なんかでも大いに尊敬されているのに、なぜここでは悪者なのであろう。洪水だから、とは言えるかも知れんが、どうも神が恐れ神でもあるというより、神すなわち我々の世界の要素が、なんの前触れもなく悪役になったりならなかったりする性格が存在していると、古事記などを読んでいると思わざるを得ない。編集の、すなわち権力の意地悪さと言ってしまえばそうなのであろうが、――それよりも、何が主体になって動きだし、文脈が更新されてしまうかその都度分からないにも関わらず、だからこそ安定もしている我々の世界が、もう世界観として確立していたかのように思われるのである。

 僕は鼠になつて逃げるらあ。
 ぢや、お父さんは猫になるから好い。
 そうすりやこつちは熊になつちまふ。
 熊になりや虎になつて追つかけるぞ。
 何だ、虎なんぞ。ライオンになりや何でもないや。
 ぢやお父さんは龍になつてライオンを食つてしまふ。
 龍?(少し困つた顔をしてゐたが、突然)好いや、僕はスサノヲ尊になつて退治しちまふから。

――芥川龍之介「比呂志との対話」


芥川龍之介はこの先を書かない。そりゃ忖度と言えば忖度なのだが、芥川龍之介の世界は、たといスサノヲがだれかに退治されなくても、――この先がほっといてもあり得ることをなかなか認めないところがあるのではなかろうか。

力持ちという存在

2020-08-13 23:41:15 | 文学


「汝が命に益して貴き神坐す故に、歓喜び咲ひ楽ぶぞ」と、 如此言す間に、天児屋命・布刀玉命、其の鏡を指し出で、天照大御神に示し奉る時に、 天照大御神、逾奇しと思ほして、 稍戸より出でて、臨み坐す時に、 其の隠り立てる手力男神、其の御手を取り引き出だすに即ち、 布刀玉命、尻久米縄以ちて其の御後方に控き度して白言ししく、 「此れより以内に、得還り入りまさじ」とまをしき。 故、天照大御神出で坐しし時に、高天原と葦原中国と、自づから照り明ること得たり。


引きこもりを部屋から出す作戦としては、「そんなんでうまくいくかいな」と思わざるをえない。だいたい問題は、スサノオなのであって、此の乱暴者がどうなってるかわからんのにアマテラスははたしてでてくるのであろうか。DV父母やなにやらがいるのに、妹が「ケーキを一緒に食べようよ」と誘ったら出てきてしまった馬鹿兄貴ではないか。だいたいストリッパーが「あなたより貴い神様がいるのでみんなで喜んでいるのです」はないわな、失礼にも程がある。それに、鏡をアマテラスに向けて、――そこに映った彼女を彼女自身がみて「ハテ?」とか思うのであろうか。彼女は自分の顔を見たことがないのかっ

そして、出てきてしまったアマテラスにマッチョマンテジカラオが手首を摑んで引っ張り出し、フトダマが注連縄を後ろに張り巡らして「ここから退くことはなりません」とか、はい完全に神内暴力です。暴力反対!

そういえば、タジカラオがどけた岩は投げられて戸隠に落ちたという伝説があります。我が故郷は、アマテラスが降臨したり岩が落ちたりと、まったく野蛮の地の癖にいろいろと地位を上げようと頑張っております。

彼はよく子供の頃の自分を考へた。小学校の頃は組で誰よりも小心者で、隣の子供の悪事にも自分が叱られるやうにいつもビクビクしてゐたものだ。恐らく誰からもその存在を気付かれぬやうな片隅の、又物蔭の子供であつた。中学の頃から急にムクムクふとりだしてスポーツが巧くなつたり、力持ちになつたり、いつ頃からか人前へ出しやばつて生きることにも馴れたものだが、かうしてぎりぎりのところへくると、オドオドした物蔭の小学生が偽らぬ自分の姿だと思ひだされてしまふのである。
 彼は小さい時から、あくどいもの、どぎついものにはついて行けないたちであつた。五十女の情慾や変態男の執念などは、まともにそれを見つめることもできないやうな気持なのだが、そして、淪落の息苦しさ陰鬱さに締めつけられる思ひであつたが、又、不思議にだらしなく全身のとろけるやうな憩ひを覚えるのはなぜだらう。


――坂口安吾「母の上京」


「なぜだろう」じゃねえよ、と思うのであるが、――思うに、大柄な力持ちの方は、肉体にたくさんの魂が宿っているのではなかろうか。本当は無視すべきなのだが、安吾のような心優しい人は自分の体の魂に敏感だ。大きくなれば、それだけ神の数がシランうちに増えているのは、古事記の教えるところだ。アマテラスにしても、一芸しかないような神々に「あなたがいなきゃ困ります」とか言われて大変である。いつの世も大物は苦労する。

闇夜に対する

2020-08-12 23:40:05 | 文学


アマテラスがスサノオの横暴にあいそをつかし、洞窟に籠もってしまった。世界から光が失せた。――にしては、神々は活動的である。

常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天安河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ、玉祖命に科せて、八尺の勾たまの五百津の御須麻流の珠を作らしめて、天児屋命、布刀玉命を召して、天の香山の真男鹿の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天の波波迦を取りて、占合ひ麻迦那波しめて、天の香山の五百津真賢木を根許士爾許士て上枝に八尺の勾たまの五百津の御須麻流の玉を取り著け、中枝に八尺鏡を取り繋け、下枝に白丹寸手、青丹寸手を取り垂でて、此の種種の物は、布刀玉命、布刀御幣と取り持ちて、天児屋命、布刀詔戸言祷き白して、天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、天宇受売命、天の香山の天の日影を手次に繋けて、天の真拆をかづらと為て、天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸にう気伏せて蹈み登抒呂許志、神懸り為て、胸乳を掛き出で裳緒を番登に忍し垂れき。爾に高天の原動みて、八百万の神共に咲ひき。

最後の青少年育成条例違反的なダンスのところに注目しすぎて、しばしばわたくしも、このお祭りがたくさんの手順を踏んでいることを忘れていた。長鳴鳥はどうやら鶏のことらしいが、コケコッコーが鳴いたくらいでどうにかなるもんでもないのは、神々でなくても分かる。次に鏡をつくらせる。鏡に映して魂を呼び込もうという作戦であろうか。我々は、毎日鏡に向かっていますが、我々の心が虚無なのは、そのためだったのでしょう。――そういえば、油断していましたが、もう鉄鋼の技術もあったらしいのです。我々は神々の痴話げんかに目をとられすぎました。次いで、玉づくりです。勾玉をたくさん集めて玉飾りをつくります。玉は太陽を誘い出すらしいのです。 ここまでくると、さあそれをつり下げて光を当てよディスコだ、となりそうですが、そのまえに鹿の方骨で占いです。

で、踊りの前に(←しつこい)、榊とか勾玉とか鏡とか幣とかをなんかいろいろして祝詞を唱えます。

あとは青少年育成条例違反です。

思うに、スサノオが暴れたりして世の中がおかしくなると、こういう祭りをやると称して「やった感」を出していたのでしょう。いまでも、GOTOHELLキャンペーンをはじめ、人々がやたら外に出てはしゃいでおりますが、おそらく上のお祭りなのです。「やった感」を批判する方々は、民衆のこのお祭りまで否定する勇気がなければならぬ。

坂口安吾「戦争と一人の女」の映画版にも、女が下半身を太陽にあてて消毒する場面があったが、案外上の場面の変形かも知れない。そのかわり、戦争は男と女と関係なく進行して破滅した。

 戦争は終つた。
 戦争の間だけの愛情だといふことは、二人の頭にこびりついてゐた。敵の上陸する日まで、それは二人の毎日の合言葉であり、言葉などの及びもつかぬ愛情自体の意志ですらあつた。その戦争が終つたのだ。
 女はほんとに一緒に暮したい気持があるのかな、と、野村は考へてみても信じる気持がなかつた。
 淫蕩の血が空襲警報にまぎれてゐたが、その空襲もなくなるし、夜の明るい時間も復活し、色々の遊びも復活する。女の血が自然の淫奔に狂ひだすのは僅かな時間の問題だ。止めようとして、止まるものか。高めようとして、高まるものか。
 終戦になつてみると、覚悟はきまつたやうだ。なに、女だつて、さうなのだ。野村に食つてかゝつた女は、二人の愛情の永続を希むやうな言葉のくせに、見様によつては野村よりも積極的に、すでに二人の破綻のための工作の一歩をきりだしたやうなものだ、と野村は思つた。
 女はいつでも良い子になりたがるのだ、自分の美名を用意したがるものなのだ、と、急に憎さまでわいてきた。
 女は一泊の旅行にでも来たやうな身軽さでやつて来たのに、出る時はさうも行かないものなのか。なに、しばらく淫蕩を忘れて、ほかに男のめあてがないから今だけはこんな風だが、今にこつちが辟易するやうになるのは分りきつてゐるのだ、と野村はだんだん悪い方へと考へる。女のわがまゝを見ぬふりをして一緒に暮すだけの茶気は持ちきれないと思つた。
「もう、飛行機がとばないのね」
 女は泣きやんで、ねそべつて、頬杖をついてゐた。
「もう空襲がないのだぜ。サイレンもならないのさ。有り得ないことのやうだね」
 女はしばらくして、
「もう、戦争の話はよしませうよ」
 苛々したものが浮んでゐた。女はぐらりと振向いて、仰向けにねころんで、
「どうにでも、なるがいゝや」
 目をとぢた。食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体であつた。
 戦争は終つたのか、と、野村は女の肢体をむさぼり眺めながら、ますますつめたく冴えわたるやうに考へつゞけた。


こういう情景を生み出しただけでも、近代は意味があった。

気吹の狭霧

2020-08-11 23:15:06 | 文学


故爾に、各天の安の河を中に置きて宇気布時に、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩かせる十拳の剣を乞ひ度して、三段に打ち折りて、奴那登母母由良に天の真名井に振り滌ぎて、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、多紀理豐売命。亦の御名は奥津島比売命。次に市寸島比売命。亦の御名は狭依豐売命と謂す。次に多岐都比売命。三柱。速須佐之男命、天照大御神の左の御美豆良に纏かせる八尺勾潴の五百津の美須麻流の珠を乞ひ度して、奴那登母母由良に天の真名井に振り滌ぎて、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。亦右の御美豆良に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、天之菩卑能命。亦御鬘に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、天津日子根命。又、左の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、活津日子根命。亦、右の御手に纏かせる珠を乞ひ度して、佐賀美に迦美て、吹き棄つる気吹の狭霧に成りませる神の御名は、熊野久須豐命。五柱。

たくさん子どもができちゃいましたが、産んだ子どもで相手が潔白かどうか確かめるみたいなことをやっているわけである。そんな馬鹿なと思うわけであるが、そうでもないかもしれない。

多くの夫婦が子どもの教育方針でもめて離婚しているらしい。本当は、教育方針ではない。子どもにお互いの欠点をありありとみて心底腹が立つのである。この餓鬼の性格の悪さ、頭の悪さ、どこかで見たことあるな、と思ったら、あいつだ、となるわけである。本当は自分の要素もやや入っているのであるが、どこかしら共通点を見出して結婚している二人であるから、逆にその辺は自分なのか相手なのかよく分からなくなっているわけである。

今日も夕立があった。

風がごうっと吹き雨がしゃこしゃこ降って土に吸い込まれ、草木がもりっと元気になると、太陽がこれでもかと光を浴びせる。確かに、生命は、上の二人が吹き出した「気吹の狭霧」(風と雨)を元としているような気がするのであった。過剰に性的にとらなくとも、自然の描写のような意味で、――それらは生命の仕組みに見えたのではなかろうか。

しかしまあ、どちらが生命の起源的なものか、つまり親かというと、子宮であるのか精子であるのかわからないように、どうにもならない議論に突入していくほかはなく、ここでもスサノオが勝手に勝利宣言して、乱行を働き始めるのは周知の通りである。可愛そうなのは、周囲である。

僕のなかには大きな風穴が開いて何かがぐるぐると廻転して行った。何かわけのわからぬものが僕のなかで僕を廻転させて行った。僕は廃墟の上を歩きながら、これは僕ではないと思う。だが、廃墟の上を歩いている僕は、これが僕だ、これが僕だと僕に押しつけてくる。僕はここではじめて廃墟の上でたった今生れた人間のような気がしてくる。僕は吹き晒しだ。吹き晒しの裸身が僕だったのか。わかるか、わかるかと僕に押しつけてくる。それで、僕はわかるような気がする。子供のとき僕は何かのはずみですとんと真暗な底へ突落されている。何かのはずみで僕は全世界が僕の前から消え失せている。ガタガタと僕の核心は青ざめて、僕は真赤な号泣をつづける。だが、誰も救ってはくれないのだ。僕はつらかった。僕は悲しかった、死よりも堪えがたい時間だった。僕は真暗な底から自分で這い上らねばならない。僕は這い上った。そして、もう堕ちたくはなかった。だが、そこへ僕をまた突落そうとする何かのはずみはいつも僕のすぐ眼の前にチラついて見えた。僕はそわそわして落着がなかった。いつも誰かの顔色をうかがった。いつも誰かから突落されそうな気がした。突落されたくなかった。堕ちたくなかった。僕は人の顔を人の顔ばかりをよく眺めた。彼等は僕を受け容れ、拒み、僕を隔てていた。人間の顔面に張られている一枚の精巧複雑透明な硝子……あれは僕には僕なりにわかっていたつもりなのだが。

――原民喜「鎮魂歌」


原爆――スサノオのような風を受けると、人間は妊娠するどころか、ふきさらしの人間となる。人間は強くない。

アマテラス、戦闘準備

2020-08-10 23:37:21 | 文学


故、ここに、速須佐之男命言したまひしく、「然らば、天照大御神に請して罷りなむ。」とまをして、天に参上ります時に、山川悉に動み、国土皆震りき。爾に天照大御神、聞き驚かして詔りたまひしく、「我が那勢命の上り来ます由は、必ず善き心ならじ。我が国を奪はむと欲すにこそ。」と、のりたまひて、御髪を解き、御美豆羅に纏かして、亦御鬘にも亦左右の御手にも、各八尺の勾潴の五百津の美須麻流の珠を纏き持たして、曽豐良には千入の靫を負ひ、五百入の靫を附け、亦伊都の竹鞆を取り佩ばして、弓腹振り立てて、璧庭をば向股に踏み那豆美、沫雪如す蹶ゑ散かして、伊都の男建踏み建びて、待ち問ひたまひしく、「何故上り来ませる。」と、とひたまひき。

マザコンスサノオ暴風が急速上昇、それを迎え撃つ太陽神の女神様、――まさにお母さんのかわりに姉上の所に行ってしまったというどちらにしても近親何とかの怖れあり。

今日、ポップコーンを煎っていたら、外で夕立が降っていたのに気付かなかったが、小さい物丸い物、変なかたちの物などに対する我々の興味は、何かを忘れさせるところがあり、ここでも、よくよく見ると、アマテラスの武装の場面が、「蒲団」で時雄さんが芳子のリボンとか何やらを並べて絶望=興奮しているのを越えたじゃらじゃらした小物などで装飾されているのを見ることができ、アマテラスの向股なんかを描いたあげく、沫雪の如き土煙まで塗しているのである。

どうみても語り手の魂は、スサノオよりはやくアマテラスを見に行っているのである。

輝く個々の武器を太陽神のオーラにまで引き延ばすことがなければ、彼女は戦闘美少女になってしまう。

プロコフィエフの「スキタイ組曲」の終曲では、その引き延ばされたオーラを聴くことができる。我々の文化はここまで陶酔出来ないものがある。

海は昼眠る、夜も眠る、
ごうごう、いびきをかいて眠る。

昔、昔、おお昔
海がはじめて、口開けて、

笑ったときに、太陽は、
目をまわして驚いた。

かわいい花や、人たちを、
海がのんでしまおうと、

やさしく光る太陽は、
魔術で、海を眠らした。

海は昼眠る、夜も眠る。
ごうごう、いびきをかいて眠る。


――小川未明「海と太陽」


こういう感じのまま、崇高なるものに向かおうとすると、――言葉が見つからずに、代わりにでてくるのが行動である。

泣いているスサノオさん

2020-08-09 23:00:47 | 文学


伊邪那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまひしく、「何由かも汝は事依させし国を治らさずて、哭きいさちる。」とのたまひき。ここに答へ白ししく、「僕は妣の国根の堅州国にまからんと欲ふ。故、哭くなり。」とまをしき。ここに伊邪那岐大御神、大く忿怒りて詔りたまひしく、「然からば汝はこの国に住むべからず。」とのりたまひて、すなはち神逐らひに逐らひたまひき。故、その伊邪那岐大御神は、淡海の多賀に坐すなり。

イザナキの禊ぎのとき鼻から生まれたのがスサノオで、海を治めることになっていた。最近の子どもはものすごい勢いで泣く子がいてどうなってるのかと思うが、――スサノオの場合は、母恋し、なのであった。此の部分の前は、

各々依さしたまひし命の随に、知らしめす中に、速須佐之男命、命させし国を治らさずて、八拳須心の前に至るまで、啼きいさちき。その泣く状は、青山は枯山の如く泣き枯らし、河海は悉に泣き乾しき。ここをもちて悪しき神の音は、さ蝿如す皆満ち、萬の物の妖悉に発りき。


であって、スサノオのギャン鳴きのせいで、山は枯れ、海は涸れ、悪霊が夏蠅の如く轟きわたるのであった。たぶん猛烈台風と日照りが一夏に来たような感じで、屍体にたかる蠅が空を覆っていたに違いない。スサノオは海洋系のふつうの王さまだったに違いないが、こんな災厄の象徴にされてしまったのであろう。出雲神話系を組み込むためのスサノオの登場だとも言われているが、彼を追放した後、イザナキが淡路の多賀神社に祀られています、というのはやはり唐突に見える。スサノオに淡路島まで追い詰められてころされたのかもしれんが、どうでもいいか……。

坂口安吾が新日本地理で言っているように、八坂神社の多さからスサノオの人気ぶりを想定すべきかもしれないが、――わたくしは、スサノオがやたら泣いていることが気に掛かる。古事記の作者は、我が風土にある泣く文化の一端について語ろうと思ったのかもしれない。そんな泣く男は、母の元へ、死の国へ行きたいと泣いている。それが消極的なものではなく、すごく積極的な何かなのだ。

写真をうつしてしまふと、お猫さんはトボトボとお家へ帰つて来て、鏡を見ました。涙がホツペタを流れて、顔中の毛がグシヤグシヤになつてゐました。
「これぢやあ、一等どころかビリツコだ。」と思ふと、又もや涙が流れて出ました。
「あひるさんのリボンを買つてかへすにもお金はなし……」と思ふと、又もや涙が流れ出ました。ところが、あくる日、おそるおそる新聞を見ますと、
「泣いてゐるお猫さん。一等」と大きな活字で書いてありました。お猫さんはとびあがる程よろこびました。そして写真屋さんへ行つて一円五十銭もらひました。


――村山壽子「泣いているお猫さん」


泣いていると母親が何かしてくれるので、我々は何かを学ぶ。しかし、それが直截的な因果関係でなくとも、泣いていると何かが起こったりすることがあるものだ。

成りませる神の名は、天照大御神

2020-08-08 22:28:47 | 文学


ここに、左の御目を洗ひたまひし時に、成りませる神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまひし時に、成りませる神の名は、月読命。次に御鼻を洗ひたまひし時に、成りませる神の名は、建速須佐之男命。

どうもアマテラスというのは、日本で尊敬されているのか分からないところがあり、大日如来にされたり、――空海がその化身だという本まであるのだ。いまでも農家などに限らず、伊勢神宮の判子が押してある天照大神の掛け軸が床の間に大仰に懸けられているが、その前を毎日我々は行ったり来たりしているのであって、まさにお守りに近い。

このまえ夕陽を眺めていたら、おの夕陽にさっと雲がなびいて光が弱くなった。たよりない神様で、確かに、目の穢れを拭ったという不安定な状況のお方なのである。

そういえば、わが木曽山脈のいちばん南の山である恵那山は、アマテラスが降臨して、その胞衣(えな)が埋められた伝説がある。御嶽と木曽駒に挟まれて育ったわたくしは恵那山など低すぎてバカにしておったが、神話レベルでは、太陽神が降臨しヤマトタケルが拝んだ山である。

こんなところに、リニアなど通して大丈夫なのか?

葉山嘉樹の小説には恵那がたびたび出てくる。

太陽は、ゆっくりと中央アルプス連峰の方へ、歩いて行った。まだ日は高かった。
 が、何かしら、大きな仕事を成し終えた時のような、安堵の心とうつろな魂の疲れが人々を捕えた。
 川下に死体を探しに行った、堰堤の方の人々は、まだ帰らなかった。
 川舟が上り、雨が降って、眠れる天龍が、起こって雲を呼び、雨を降らし、川底の石を転がすようになっては、死体の捜索は困難というよりも、至難になるであろう。


――葉山嘉樹「山谿に生くる人々」


ほとんど神話の世界に突入している葉山の世界であった。

イザナミ強し!――人口減少問題を中心に

2020-08-07 23:28:59 | 文学


最後に其の妹伊耶那美命、身自ら追ひ来りき。爾くして千引の石を其の黄泉比良坂に引き塞へて、其の石を中に置き、各対ひ立ちて、事戸度す時、伊耶那美命言ひしく、「愛しき我がなせの命、如此為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」といひき。爾くして伊耶那岐命、詔りたまはく、「愛しき我がなに妹の命、汝が然為ば、吾は一日に千五百の産屋を立てむ」とのりたまひき。是を以て一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まるるなり。故、其の伊耶那美神の命を号けて黄泉津大神と謂ふ。亦云はく、其の追ひしきしを以て道敷大神と号く。

はじめて国生みをするときに、いい男、いい女といいながら柱をぐるっと廻ったように、ここでは、人間界の死を生むのだ。柱ではなく石を間において、向かいあい、愛する男、愛する女、といいながら、女は死を生み、男は生を生むことにしたのである。ここでも口火をきるのは女で、それをいいことに、男はそんな死の数よりも俺はもっと生んでやるぞ、と言い返すわけである。国生みの時のように、男が先に言うのがいいとか文句を言っておきながら、イザナキはほんとクズ野郎である。

昨今も、てめえが先に言い出すべき所を他人に言わせておいて、それに反論してマウントをとる輩がたくさんいるが、本人はただ気の利かない病人なので気がつかない。イサナキもその類いであろう。考えてみると、見るなと言われたにも関わらず見てしまったこいつは、本当は、その言葉をちゃんと聞いてなかった可能性が高いと思う。

で、この二人が生んだ国では、すっかり死者の数が生まれる数を上回っている。最近は、毎年五十万人減っているそうである。イザナミ強し!

わが故郷、木曽町が毎年五十個分消えていることになる。

「まあ、愚痴をいったってはじまらない。ともかく、よかれあしかれ、この戦争の「意味」もきまった。なんのために死んだかわからずに宙に浮いていた魂も、これでようやく落着くだろう。だから、今年のお盆は、この戦争の何百万人かの犠牲者の新盆だといってもいいわけだ。それできょうはみなに家へ来てもらって大宴会をやるんだ」
「なんですか、大宴会というのは」
「わたしはみなに約束したんだ。戦争がすんだら王朝式の大宴会をやるって。つまり、これからその招待に行くんだ……本式にやれば、提灯をつけて夕方お墓へ迎いに行くんだろうが、みなリーブル・パンスウルだから形式にこだわったりしないだろう。もっとも、間違いのないように名刺は置いてくる」
「でも、降霊術のようなものは、カトリックでは異端なんでしょう」
「どうしてどうして、カトリックの信者ぐらい霊魂いじりのすきな連中はない。故人がうんざりするほど呼びだして、愚問を発して悩ますんだ。一年に一度、迎い火を焚いて霊を待つなんていう優美なもんじゃない。来ないと力ずくでもひっぱりだしかねないんだから」
「では、わたくしもお供しましょうか」
「まあ、やめとけ。死したるものは、その死したるものに葬らせよという聖書の文句は素晴らしいね。昨日わたしはみなの墓を廻ってみたんだけれども、掃除をしてあるのはただの一つもなかった。日本人は戦争で死んだ人間などにかかずらっているひまはないとみえる。それも一つの意見だろうが、死んだやつは間抜け、では、あのひとたちも浮ばれまいと思うよ」
「それで、おけいも呼ばれているのですか」
「君はだんだんフランス人に似てきたね。それも悪いフランス人にさ。そういう質問は、冷酷というよりは無思慮というべきものだよ。おけいさんの遺骨はまだニューギニアにある。これは遠いね。ちょっと迎いに行けないが、おけいさんはきっと来てくれるよ。君のような俗人にはわからないことだ」
「ひどいことをいわれますね」


――久生十蘭「黄泉から」


よくわからんが、確かに我が国はなんとなく死者との対話が足りない気がするのだ。イザナミも岩など乗り越え、イザナキを絞め殺すところから始めた方がよかったのだ。最近は幽霊も出なくなって、我々は思い上がるようになった。

八雷神成り居りき

2020-08-06 23:40:40 | 文学


故、左の御みづらに刺させる湯津津間櫛の男柱一箇取り闕きて、一火燭して入り見ます時に、うじたかれころろぎて、頭には大雷居り、 胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左手には若雷居り、右手には土雷居り、左足には鳴雷居り、右足には伏雷居り、せて八雷神成り居りき。

我々には無限の観念がないという人もいるのだが、青々と広がる田んぼには一種の無限さみたいなものをわたくしは感じる。それは、稲の林の中がよく見えない密林のように感じられるということも手伝っているに違いない。そこには、様々な虫がうごめいているし、もっと何かもいるかも知れない。

上のイザナミの腐乱死体でたかっていたものが、――確かなのは蛆な訳で、その後に記述されている雷というのも、本当は虫ではないかと思うのだ。様々な虫が屍体を処理しに来ていたのである。空に土に満ちている虫たちの延長として、雷も存在していたのかも知れない。「虫出しの雷」によって、虫が動き出すと考えられていたし、(いつからかしらんけど……)

それから三月ほどたつと、おじいさんのおかみさんが急におなかが大きくなりました。そして間もなく男の赤んぼが生まれました。
 その赤んぼは生まれた時から、ふしぎな子で、きれいな錦の小蛇が首のまわりに二巻き巻きついていました。そしてその頭としっぽの先は長く伸びて、赤んぼの背中でつながっていました。
「さては雷が、約束のとおり子供をよこしてくれた。」
 とお百姓はいって、夫婦して大事に育てました。
 この子が十三になった時、お百姓は学問を仕込んでもらおうと思って、元興寺の和尚さんのお弟子にしました。
 するとこの子は学問よりも大そう力が強くって、お弟子に入ったあくる日、自分の体の三倍もあるような大きな石をかかえてほうり出しますと、三尺も地びたがめり込んだので、和尚さんはびっくりして、この子はただものでないと思いました。


――楠山正雄「雷のさずけもの」


空から墜ちてきた慌て者の雷が、老夫婦の願いを叶えてやったけっか生まれたのが上の子どもで非常に力が強かったそうである。それにしても、きれいな錦の小蛇がふたまき巻き付いて、頭と尻尾が背中で繋がっているとはどういうことであろう。とても不気味であるが、神社の注連縄もかなり不気味なので、お相撲さんみたいなものだと思っておこう。無論、雷は蛇とも伝統的に関係がある。

合理的な思考をしていたわたくしの祖母なんか、押し入れか箪笥にいた青大将を捕まえて、八沢川に放り投げていた。わたくしも、そんな家に住んでいたのであった。

我をな視たまひそ

2020-08-05 22:53:56 | 文学


爾に伊邪那美命、答白したまはく、「悔しきかも、速く来まさずて。吾は黄泉戸喫為つ。然れども愛しき我がなせの命、入り来ませる事恐ければ、還りなむを、且く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ」如此白して、其の殿の内に還り入りませる間、甚久しくて待ち難たまひき。


イザナミは死んでしまった。しかしこのあたりでは、死ぬことは身一つの顔のようなものであって、それが閉じてしまったからといって、植物が水を吸ってもう一回息を吹き返すように生がありうるように思われるのであった。イザナキは死んでしまった顔に語りかける、「まだ国は完成していない、もどっておくれ」と。死んでしまったものを同じように復活させることはできない。おもうんだが、ここでイザナミ相当の似た顔の妻がどこからかあてがわれる予定であったかもしれん……。それまであなたは王座でまっておれ、とイザナミは言っている。しかし、イザナキは柄谷行人の単独性の病に罹っておったので、妻は腐乱していても妻なのであった、このあと、彼はそれを見ることになる。

妻を単独性とみることの禁止が、国作りでは要請されたのであった。妻が死んだら、同じ顔をした者が代わりに本人となる。

最近の人間が宗教的安定を獲得出来なくなったのは、腐乱死体を見たことがないという事情もあるであろう。我々の変容を見たことがない我々は、此の世というものの同一性がいつも主観的に安定していると思い込んでいる。見てはならない、という命令が宗教のどこかに本質的なものとしてあるに違いない。しかしもともと見たことがないから、禁止を命じる存在が我々の身から自然に出てくるんだということを知らずに過ごしてしまう。

兵隊は鉄砲をとりあげると、あおむけに寝たまま額の真上の空にねらいをつけてズドンと射ち放した。
 すると弾丸は高く高くはるかなる天の深みへ消えて行った。
 兵隊はやはり寝たまま鉄砲をすてて、そして手近な花を摘んで胸に抱いた。それからさて兵隊はスヤスヤと眠った。
何分か経つと、果して兵隊のすぐれた射撃によって射ち上げられた弾丸は、少しの抛物線をも画く事なしに、天から落下して来て兵隊の額の真中をうち貫いた。それで花を抱いて眠っていた兵隊は死んでしまった。
 シャアロック・ホルムズが眼鏡をかけて兵隊の死因をしらべに来たのだが、この十九世紀の古風な探偵のもつ観察と推理とは、兵隊の心に宿っていたところの最も近代的なる一つの要素を検出し得べくもなかったので、探偵は頭をかいて当惑したと云う。


――渡辺温「兵隊の死」


もっとも、ホームズだって、兵隊が死んでいること自体はわかったのだ。イザナキはわからなかっただけである。

怪物たちの世界

2020-08-04 23:24:52 | 文学


次に筑紫嶋を生みき。此の嶋も亦、身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。

この身一つに面四つというのはさまざま議論があるのであろうが、面(顔)に名前がついているというは、まあ当然のようで、――確かに、いまでも我々は顔写真と名前をセットにしている。足首と名前をセットにしたりはしない。

身は神の生んだ器官であるが、そこから顔が分岐してあらわれる。ZOOMにあらわれる学生の顔みたいなものであろうか。ネットワークは器官である。我々の身体は顔に附属している尻尾みたいなものであろう。

この前、ネットで「仮面ライダーアマゾンズ」というのを見たけど、わたくしは生まれた頃やってた「仮面ライダーアマゾン」は独りボッチで、なんかしらんけど早々とアマゾンに帰ってしまったみたいな話だったようだが、今回見たのは、製薬会社がつくったアマゾン細胞かなんだかを人体に入れると、みんなアマゾンという人食い生物に変態してしまうのである。それがすでに話が始まる前に4000もいて、町で暮らしている。で、それらを狩る人達のドラマがこのシリーズであった。どこかからくる昭和の悪役たちに比べて、排除の問題を我々の心の問題に求めるのは確かに誠実さのようにみえるが、外国人がたしかひとりも出てこないそれはまさに「日本のお話」である。表面上はお子様向けではないつくりで、かなりグロテスクなシーンが連続するが、――そりゃ我々の内部は親子問題を含めてグロテスクに決まっており、問題は、「その殺人は殺人罪なので、これから裁判が始まります」という現実を無視しているということである。

で、――話はずれたが、このアマゾンズというのは、仮面の形がまず第一の識別記号とおもいきや、顔をまじまじと映されるのは、主役級のアマゾンズ三体ぐらいで、あとは怪物ズということでじっくりとは映されない。つまり彼らには顔がない。日本で言えば島ですらなく、最初に流された蛭である。もっとも、この主役級も、アマゾン細胞を器官とした三つの顔に過ぎないのだ。

まあ怪物に目方があってもなくっても、そんな事は構わないとして次に大怪物である我々人間の事を少し考えたい、人間が五官によっている間はまだ悪い怪物である、世人は科学に中毒してあまりに人間の五官を買い被り過ぎている。暗いところでは何も見えない、鼠や猫に劣る眼を持って実際正確に事物が見えようか、盗人の足痕を犬のように探れない鼻で実際香が嗅げようか、舌にしてもその例に洩ない、触感も至って不完全なもので、人間はこの五官では到底正確に事物を知ることが出来るものではないのである。ただ茲に不思議なのは心である、五官の力を借りないでこの心で事物を知る能力が人間に備っている。即ち種々ある手段によって三摩地の境涯に入れば自ら五官の力を借りずに事物を正しく知ることが出来る、古来聖人君子の説かれた教は皆この五官の迷を捨てよと云う事に他ならないのである。

――平井金三「大きな怪物」


古来、我々は人間だけでなく、島々までも、それ自体として捉えることはできなかった。かえって、五官を閉じることみたいな境地のなかに自分というモノをみいだすのである。そうでないとき我々の魂は、器官でもなく顔でもない位相を飛んでいる。

四国誕生

2020-08-03 23:13:21 | 文学


次に伊予之二名嶋を生みたまひき。この嶋は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ、伊予の国を愛比売といひ、讃岐の国を飯依比古といひ、粟の国を大宜都比売といひ、土佐の国を建依別といふ。

四国が生まれました。なんと顔が四つあるばけものです。四国が伊予(愛媛)の名を冠しているのは何かあるんでしょうね。愛媛は前方後円墳が少ないという話を聞いたことがある。わが讃岐は、峰山と言うところに(大学からみると、全体が古墳に見えるんだけど)たくさんあるのである。讃岐に大和朝廷の初期段階で都だったんじゃないかという説まできいたことがある。

以前、中国に行ったときに、人民服の雑踏の中で、ガイドが、あれが万里の長城の一部だよ、と指さす方向を見ると、煉瓦が取り去られた砂山みたいなものが程よく遠くにいくつかあるのだった。いまでも瞼の裏に焼き付いている。

我が讃岐も、どうみても山に見えないお椀のような小山がある。人の営為ではなく、自然の営為だ。これが中国との違いであろう。我々は、自ら作ったモノから影響を受ける。道具に影響を受けるのと同じ事だ。日本ではその契機が生じにくいというのもあるのかも知れない。

それにしても、古事記のときの国の区分がほぼそのまま今まで残っているのも異常に思えるわ……

土佐 門狭ですなわち佐渡の狭門に同じく狭い海峡をはいって行く国だとの説がある。しかしアイヌで「ツサ」は袖の義である。土佐の海岸どこに立って見ても東西に陸地が両袖を拡げたようになっているから、この附会は附会として興味がある。もしこれがアイヌだとすると、隣国讃岐は「サンノッケウ」すなわち顎であろう。能登がアイヌの「ノト」頤である事は多くの人が信じている。
坪井博士の説ではトサはやはりチャム系の言葉で雨嵐の国だそうである。これだとあまり有難くない国である。

高知 これは従来の説では、河内すなわちデルタだそうである。坪井博士の説ではチャム語で島である。しかしアイヌだと「コッチ」「コーチ」宅地となる。これはまたマレイの「コータ」堡塁とのある関係を思わせる。
 以上は大部分ただ偶然の暗合に過ぎないかもしれない。しかし中には実際ある関係をもつものもあるかもしれない。関係があるとしても、それがどういう関係であるかは分らない。実際アイヌの先祖の言葉であるのか、また我々の先祖の言葉が今のアイヌの言語に混入しているのか、あるいは朝鮮、支那、前インド、南洋から後に渡来したのがアイヌの先祖と吾等の先祖の言語に混合しているのかそれはなかなか容易に決定し難い問題である。
 ただ以上のようにこじつけ得られるという事自身には何らかの意義があるであろう。この事実がもし我郷土の研究者に何かの暗示を与える端緒ともならば大幸である。


――寺田寅彦「土佐の地名」


どうもわたくしの田舎なんか、近世あたりまで縄文時代が続いていた――、あるいはアイヌ系がずっと残ってたみたいなことがまことしやかに言われたりするのであるが、どうでもいいかな、人のごたごたがそれほど記録される程なかったような気がするからだ。四国はいずれにせよ、国の境はあまり変わらなかったかもしれないが、絶対死屍累々の土地なのだ。寺田寅彦はあまりそういうことは気にならないたちかもしれないが、――

神々の閨――蝉と天使

2020-08-02 23:19:41 | 文学


「汝は右よりめぐり逢へ、我は左よりめぐり逢はむ」とのりたまひて、約り竟へてめぐりりたまふ時に、伊耶那美の命まづ「あなにやし、えをとこを」とのりたまひ、後に伊耶那岐の命「あなにやし、え娘子を」とのりたまひき。おのもおのものりたまひ竟へて後に、その妹に告りたまひしく、「女人先立言へるはふさはず」とのりたまひき。

今日、庭で蝉をみていたら、蝉が幹のあちら側とこちら側にいてぐるぐる回っておった。

イザナギとイザナミは蝉であった……

イザナギはマッチョ蝉であったので、「女性が先に言うのはイカン」とか言っていたが、リア充蝉、お前は何を言ってるんだ……。どっちが先でもいいだろうが、だいたいこのオスから言わなくてはならぬ=オスが稼げなきゃだめ、みたいなプレッシャーでオス蝉がどれだけ苦労しているかわかっておるのかっ

それでお二人は、さっそく、天の浮橋という、雲の中に浮かんでいる橋の上へお出ましになって、いただいた矛でもって、下のとろとろしているところをかきまわして、さっとお引きあげになりますと、その矛の刃先についた潮水が、ぽたぽたと下へおちて、それが固まって一つの小さな島になりました。
 お二人はその島へおりていらしって、そこへ御殿をたててお住まいになりました。そして、まずいちばんさきに淡路島をおこしらえになり、それから伊予、讃岐、阿波、土佐とつづいた四国の島と、そのつぎには隠岐の島、それから、そのじぶん筑紫といった今の九州と、壱岐、対島、佐渡の三つの島をお作りになりました。


――鈴木三重吉「古事記物語」


むかし、鈴木三重吉が神のベッドシーンを省いたことに腹が立ちましたが、確かに、考えてみりゃ、島を生む人間というのはどういうことでしょう。大便をかためて日本を造ったというのでしょうか。あまりにもひどすぎます。宮台真司は、日本の政治家はアメリカのケツにウンコがついてても舐めるのかこら、といっていましたが、日本の国土がクソであった場合、クソとクソとが衝突したところで何のこたあないわけで、三重吉としては、リアリズムに回帰しただけではないでしょうか。

しかし、彼らが蝉であった場合どうであろうか?

今日は、ベンヤミンの「歴史の概念について」を、クレーの「新しい天使」とともに授業で喋ったけど、蝉の排泄物はいわば天使のものであるから、我々が天使の排泄物でできていた場合は、まだ納得出来る。ベンヤミンはなんでこんなに天使が好きなのかわからんが、――むしろわたくしは蝉が天使だと思う。我々の文化は、夏の天使の襲来によって養われたのだ。耳をふさいで。