福島原発震災をめぐる報道について、ここにいていいという「基本財としての安全・安心」を守ることが大事と主張し、不安を喚起するメディアを批判する本。
タイトルからは、過去の原発政策・事故報道や福島原発震災の報道について、具体的に論じたものかと思いましたが、著者の論じ方は基本的に大所高所からというか哲学的なもので、学者の文献の引用が多数なされ、そのある種哲学的なところから抽象的な批判がなされていて、結局どうしろということなのかよくわからない部分も多々見られます。
「もしもジャーナリズムの未来に希望があるのだとしたら、それは『基本財としての安全・安心』の実現に向けて社会を導くことができた時ではないか。」(11ページ)、「そうした事情を思うと、『危険』を正しく知ることが安全に繋がるという考え方には、浅薄な主知主義を感じる。たとえばパスカルの『パンセ』に『想像力』と題された一節がある。偉大な哲学者が非常に幅の広い板の上に立っている。その板の上に乗っていれば落ちる危険はない。それは頭ではわかっている。しかし板の下には千尋の谷があるということを知ってしまうと、想像力の中で恐怖が膨らみ、頭では『安全』と知っていても、彼は『不安』に苛まれるようになる。こうしてパスカルは『知ること』によってむしろ『不安』にかられる可能性があるのが人間のリアリティだということを示した。」(61~62ページ)こういった主張から著者はいったい福島原発震災の報道でどうすべきだといいたいのか、著者はその結論を明示していませんが、これは結局のところ、著者が批判している支配者側に寄り添い「知らしむべからず、寄らしむべし」という態度をとることとどう違うというのか、私には全然理解できませんでした。
著者は、この本の中で、「怖がり過ぎ」とともに「怖がらなさ過ぎ」をも批判しています(76~78ページなど)。しかし、具体的批判は常に原発反対派にのみ向けられています。原発推進派と反対派が妥協しなかったために反対派は絶対安全といったプロパガンダにこだわりより安全な原子炉を選べなかった(30~33ページ)といい、原発反対派が一定の範囲で原発を容認すべきだったと結論づけています。原発反対派が存在したおかげで原発の運転や改善に緊張感が維持され事故が少なかったという評価も、むしろ原発推進派から時折聞かれますが、この著者はそういう視点は持たないようです。他のジャーナリストに対しては幅広い視野を持てと叱咤しているように読める本ですが。挙げ句の果てはJCO臨界事故で作業員が臨界の危険について知識を持っていなかったことまで反原発運動が原発労働に対して否定的評価をしていたなどとレッテルを貼り「その意味で、この事故に対しては反原発運動も決して無関係ではあり得なかった。」(227ページ)とまで言い募っています。著者はどちらの陣営にも与しない(と明言はしていませんが)姿勢を取っているように書いています(例えば41~46ページ)が、これらの書きようを見ていると、普通の原発推進派よりも頑迷な推進派に思えます。
後半で著者は、放射能の危険を強調するメディアは、放射能以外のリスクをも負いそこにとどまらざるを得ない地元住民や風評被害を受ける生産者等、原発労働者たちの気持ちを踏みにじっているという趣旨のことを指摘しています。そのこと自体は正しい指摘であるとともに、著者のような立場・物言いをしないジャーナリストにも問題意識はすでに共有されていると思いますし、この本のような書き方をしなくても十分伝わるはずです。先に述べたようにかなり極端な(著者はこれを極端と思っていないらしいところが驚きですが)原発反対派批判をしたり、「福島県に原発が作られるようになったのは、地元がそれを求めたことが大きい。」(27ページ)などというそれこそ地元の住民の気持ちを踏みにじっても政府と電力会社を正当化する物言いをする本で、そういうことを言ってもそれは「真実のチカラ」「言葉のチカラ」を持ち得ないと私は思うのですが。
武田徹 講談社現代新書 2011年6月20日発行
タイトルからは、過去の原発政策・事故報道や福島原発震災の報道について、具体的に論じたものかと思いましたが、著者の論じ方は基本的に大所高所からというか哲学的なもので、学者の文献の引用が多数なされ、そのある種哲学的なところから抽象的な批判がなされていて、結局どうしろということなのかよくわからない部分も多々見られます。
「もしもジャーナリズムの未来に希望があるのだとしたら、それは『基本財としての安全・安心』の実現に向けて社会を導くことができた時ではないか。」(11ページ)、「そうした事情を思うと、『危険』を正しく知ることが安全に繋がるという考え方には、浅薄な主知主義を感じる。たとえばパスカルの『パンセ』に『想像力』と題された一節がある。偉大な哲学者が非常に幅の広い板の上に立っている。その板の上に乗っていれば落ちる危険はない。それは頭ではわかっている。しかし板の下には千尋の谷があるということを知ってしまうと、想像力の中で恐怖が膨らみ、頭では『安全』と知っていても、彼は『不安』に苛まれるようになる。こうしてパスカルは『知ること』によってむしろ『不安』にかられる可能性があるのが人間のリアリティだということを示した。」(61~62ページ)こういった主張から著者はいったい福島原発震災の報道でどうすべきだといいたいのか、著者はその結論を明示していませんが、これは結局のところ、著者が批判している支配者側に寄り添い「知らしむべからず、寄らしむべし」という態度をとることとどう違うというのか、私には全然理解できませんでした。
著者は、この本の中で、「怖がり過ぎ」とともに「怖がらなさ過ぎ」をも批判しています(76~78ページなど)。しかし、具体的批判は常に原発反対派にのみ向けられています。原発推進派と反対派が妥協しなかったために反対派は絶対安全といったプロパガンダにこだわりより安全な原子炉を選べなかった(30~33ページ)といい、原発反対派が一定の範囲で原発を容認すべきだったと結論づけています。原発反対派が存在したおかげで原発の運転や改善に緊張感が維持され事故が少なかったという評価も、むしろ原発推進派から時折聞かれますが、この著者はそういう視点は持たないようです。他のジャーナリストに対しては幅広い視野を持てと叱咤しているように読める本ですが。挙げ句の果てはJCO臨界事故で作業員が臨界の危険について知識を持っていなかったことまで反原発運動が原発労働に対して否定的評価をしていたなどとレッテルを貼り「その意味で、この事故に対しては反原発運動も決して無関係ではあり得なかった。」(227ページ)とまで言い募っています。著者はどちらの陣営にも与しない(と明言はしていませんが)姿勢を取っているように書いています(例えば41~46ページ)が、これらの書きようを見ていると、普通の原発推進派よりも頑迷な推進派に思えます。
後半で著者は、放射能の危険を強調するメディアは、放射能以外のリスクをも負いそこにとどまらざるを得ない地元住民や風評被害を受ける生産者等、原発労働者たちの気持ちを踏みにじっているという趣旨のことを指摘しています。そのこと自体は正しい指摘であるとともに、著者のような立場・物言いをしないジャーナリストにも問題意識はすでに共有されていると思いますし、この本のような書き方をしなくても十分伝わるはずです。先に述べたようにかなり極端な(著者はこれを極端と思っていないらしいところが驚きですが)原発反対派批判をしたり、「福島県に原発が作られるようになったのは、地元がそれを求めたことが大きい。」(27ページ)などというそれこそ地元の住民の気持ちを踏みにじっても政府と電力会社を正当化する物言いをする本で、そういうことを言ってもそれは「真実のチカラ」「言葉のチカラ」を持ち得ないと私は思うのですが。
武田徹 講談社現代新書 2011年6月20日発行