トランス活動家の主張や運動を敵視し攻撃的な批判をしている本。
トランス活動家が、医学的移行(性別適合手術やホルモン剤投与等)等なしにジェンダーアイデンティティのみでジェンダー女性(体は男性、心は女性)を女性と扱うべきとすることに対し、現実レベルでは主として更衣室、シェルター等の女性専用スペースへのジェンダー女性の侵入と女性アスリート扱いをすることの不当性を挙げて、哲学的・論理的な面からの批判を延々と展開しています。専用スペースやスポーツ選手の区分などの問題についてはそれぞれの問題に応じた対処・ルールを検討して解決すればいい、犯罪者は犯罪者として処遇すればいいと私は考えます。著者のようにそれを理由に、すべての基準を生物学的性別に戻すのではなく。
著者は繰り返し自分はトランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪者)ではない、トランスの人々が自由に生きられることを望んでいると述べていますが、トランスの人々が生きやすくするよう活動している活動家に対して激しい非難を続けることでトランスの人々の解放を妨げることになるでしょうし、多くの青少年が医学的移行を選択して取り返しのつかないことになりかねないという危惧を示しながら、トランス女性が女性スペースを利用したいなら医学的移行をしろと言わんばかりの論調がトランス女性の幸福を願っているという言葉に沿うのか疑問です。著者がトランスフォビアではないということは受け入れるとして、著者の主張は、トランスの人々の存在は認めるが、静かにしていろ、団結して権利を拡張するなどけしからんということに見えます。
著者の姿勢は、俗耳に入りやすい刺激的な例を論ってマイノリティを苦しめるもので、私には、不正受給例を採り上げて生活保護受給を厳しく制限すべきだと主張している人々と似ていると思えました。そして、著者は、そのように多数派のマイノリティに対するネガティブな感情に依拠しそれを利用してマイノリティを制約する主張をしておいて、自分が批判されると自分は迫害されているなどと被害者意識を丸出しにしています。そういう主張をするのは自由だと思いますが、率直に言って、見苦しい。
細かいことですが、273ページに「女性カメラマン」、274ページに「カメラマン」という表記があります。これは原書ではどのように表記されているのでしょうか(さすがに原書を取り寄せて確認しようとまで思いませんが)。フェミニストを自認する(著者が批判している人たちに用いている「称している」という言葉は使いませんが)著者が “ female cameraman "とか" cameraman "と表記しているのでしょうか。" photographer "でも" videographer "でも" camera operator "でもなく。言葉の使用にいろいろ神経を使っているように述べている著者が、男性・女性を通じた職業を " man "で代表し、その上で「女性」をつけているとすれば驚きです。そして、もし原書では" cameraman "ではなく中性的な用語だったものを、訳者あとがきで訳語に神経を使ったことを強調している(336~337ページ)肩書きに「専門は憲法、ジェンダー法学」と記している訳者が「カメラマン」と訳したとすればまた驚きです。著者、訳者ともに力んでいる本ですが、こういうことが出てくるように丁寧な気遣いには欠けるというか、フェミニズムの感覚に日頃から馴染んでいるわけではない人の本だと感じてしまいました。
原題:Material Girls : Why Reality Matters for Feminism
キャスリン・ストック 訳:中里見博
慶應義塾大学出版会 2024年9月20日発行(原書は2021年)
トランス活動家が、医学的移行(性別適合手術やホルモン剤投与等)等なしにジェンダーアイデンティティのみでジェンダー女性(体は男性、心は女性)を女性と扱うべきとすることに対し、現実レベルでは主として更衣室、シェルター等の女性専用スペースへのジェンダー女性の侵入と女性アスリート扱いをすることの不当性を挙げて、哲学的・論理的な面からの批判を延々と展開しています。専用スペースやスポーツ選手の区分などの問題についてはそれぞれの問題に応じた対処・ルールを検討して解決すればいい、犯罪者は犯罪者として処遇すればいいと私は考えます。著者のようにそれを理由に、すべての基準を生物学的性別に戻すのではなく。
著者は繰り返し自分はトランスフォビア(トランスジェンダー嫌悪者)ではない、トランスの人々が自由に生きられることを望んでいると述べていますが、トランスの人々が生きやすくするよう活動している活動家に対して激しい非難を続けることでトランスの人々の解放を妨げることになるでしょうし、多くの青少年が医学的移行を選択して取り返しのつかないことになりかねないという危惧を示しながら、トランス女性が女性スペースを利用したいなら医学的移行をしろと言わんばかりの論調がトランス女性の幸福を願っているという言葉に沿うのか疑問です。著者がトランスフォビアではないということは受け入れるとして、著者の主張は、トランスの人々の存在は認めるが、静かにしていろ、団結して権利を拡張するなどけしからんということに見えます。
著者の姿勢は、俗耳に入りやすい刺激的な例を論ってマイノリティを苦しめるもので、私には、不正受給例を採り上げて生活保護受給を厳しく制限すべきだと主張している人々と似ていると思えました。そして、著者は、そのように多数派のマイノリティに対するネガティブな感情に依拠しそれを利用してマイノリティを制約する主張をしておいて、自分が批判されると自分は迫害されているなどと被害者意識を丸出しにしています。そういう主張をするのは自由だと思いますが、率直に言って、見苦しい。
細かいことですが、273ページに「女性カメラマン」、274ページに「カメラマン」という表記があります。これは原書ではどのように表記されているのでしょうか(さすがに原書を取り寄せて確認しようとまで思いませんが)。フェミニストを自認する(著者が批判している人たちに用いている「称している」という言葉は使いませんが)著者が “ female cameraman "とか" cameraman "と表記しているのでしょうか。" photographer "でも" videographer "でも" camera operator "でもなく。言葉の使用にいろいろ神経を使っているように述べている著者が、男性・女性を通じた職業を " man "で代表し、その上で「女性」をつけているとすれば驚きです。そして、もし原書では" cameraman "ではなく中性的な用語だったものを、訳者あとがきで訳語に神経を使ったことを強調している(336~337ページ)肩書きに「専門は憲法、ジェンダー法学」と記している訳者が「カメラマン」と訳したとすればまた驚きです。著者、訳者ともに力んでいる本ですが、こういうことが出てくるように丁寧な気遣いには欠けるというか、フェミニズムの感覚に日頃から馴染んでいるわけではない人の本だと感じてしまいました。
原題:Material Girls : Why Reality Matters for Feminism
キャスリン・ストック 訳:中里見博
慶應義塾大学出版会 2024年9月20日発行(原書は2021年)
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