伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。2022年から3年連続目標達成!

ワールドカップがもっと楽しめるサッカー中継の舞台裏

2014-03-02 22:49:02 | 趣味の本・暇つぶし本
 フジテレビでサッカー放送を担当していた元ディレクター・プロデューサーが、サッカーのテレビ中継の苦労話や放映権料の高騰などのFIFAビジネスへの苦言や、番組制作の思い出話、監督や選手の印象等を語った本。
 最初の方はテレビ中継のシステムや技術的な話が多く、ある意味で「中継の舞台裏」というタイトルがこういう意味なのねと思わせられました。かつては海外中継の伝送システムの問題で音声の方が映像よりも早く伝送され調整がうまく行かないとアナウンサーがプレイを予言してしまう放送があった(50~51ページ)などはそういう点でも楽しく読めるエピソードと言えるでしょう。ジョホールバルの歓喜の際、試合後のインタビュー待ちの選手に飲料メーカー関連会社のスタッフが次々と自社の商品名入りの紙コップを渡してあわよくばその紙コップを持ったままインタビューを受けさせようとするのを著者がその紙コップを何気なく選手から取り上げる(98ページ)という攻防の話も。また、視聴者はどんなに観たいゲームであってもアナウンサーと解説者は選べないのだ(55ページ)というのも思い切り頷きたくなります。
 もっとも、テレビ中継の技術的側面をきちんと書いているとは言えず、例えば、著者がゲームソフトメーカーのサッカーゲーム担当者から取材を受けた時に「サッカー中継の作り方を説明したのだ。それは、キックオフの際の画作りであったり、ゲーム展開追いのカメラの画のサイズであったり、ゴールの後のリアクション映像、フリーキック、ペナルティキックのカット割り、試合終了のときの勝者敗者の画作りなどである」(202~203ページ)というのですが、この本ではそういう意味での技術的なことは書かれていません。さんまの番組の工夫よりもそういう映像技術のことをきちんと書いてくれた方がよほど読みでがあったと思います。
 読み始めてしばらくすると、基本的に古い話が多く、また同じエピソードが繰り返し出てくるのでどこかの連載の焼き直しと気づきますが、あとがきで「02年W杯終了の翌年から『ワールドサッカーグラフィック』誌に足掛け2年半にわたって連載した『テレビ裏のフットボール』を加筆訂正したものである。さらに、UEFAオフィシャルマガジン『チャンピオンズ日本版』に連載した『FootballthroughTV』も併せて、再録加筆している」(206ページ)とされています。奥付前のラストページではそんなことは書いてなくて、「本書に記載されている情報は2013年12月18日当時のものです」なんてまるで最新情報満載の本のように書かれています。それでありながら実際は何年も前の連載記事をワールドカップイヤーに出版して1粒で2度おいしいお手軽な金儲けをやろうとしてたのね、読む前に気がつかなかったのが悔しいと、最後に思わせてくれます。


村社淳 角川SSC新書 2014年1月25日発行
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科学者が人間であること

2014-03-01 20:24:15 | 自然科学・工学系
 東日本大震災の経験から、人間が生き物であり自然の中にあるということを基本として科学者としてのあり方を変えていこうと論ずる本。
 これまでの科学者のありようを、著者は「震災の直後に多くの人の怒りを買ったのは、科学技術者が思わず漏らした『想定外』という言葉でした」「さまざまな危険を思い描いている時には、自然がすべて解明されているわけではないことはよくわかっているのに、特定の数字をきめて計算しているうちに、人間がすべてを設定できるという気分になり、その数字の中で考えるようになってしまうのです。その結果、自分は普通に振る舞っているつもりなのに傲慢になるわけです。それが多くの人を怒らせたのです。」(3~4ページ)と評価しています。
 これをどのように変えていくのかについて、著者は、従来の科学の方法論を「密画的」で客観的な「機械論的世界観」と評価し、これに「略画的」で主観的な「生命論的世界観」を対置しつつ、従来の方法論を捨てるのではなく、略画的な世界の存在を常に意識して「重ね描き」をする、科学ですべてを説明しようとするのではなく自分の日常と科学でわかったこととを重ね描きとして生きることの面白さを実感できればよいのだと思うことが重要だとしています。自然の中にあるという感覚についても、天然無垢の自然ではなく例えば桜(ソメイヨシノ)のように徹底的に手を入れられた人工物を自然の中に持ち込む日本文化の特徴を賞賛しています。著者の主張は、科学を否定するのではなく、日常感覚へのフィードバックや自然への畏敬を忘れずにいようというようなところと理解すべきでしょうか。
 著者は、著者の提唱する「重ね描き」の先達として宮沢賢治と南方熊楠を挙げています。かつて高木仁三郎さんが「グスコーブドリの伝記」のブドリを市民科学者の手本として挙げたのに、私は、飛行機から肥料を撒布したり火山を爆破して気候を変えようなどというブドリはむしろ原発推進側のメンタリティを持っているのではないかと疑問を持っていました。この本で著者は「自然はやさしくないし、人間がコントロールできるものでもないことを賢治は承知していたと思います。ですから肥料をまいた時には、おかしなことをするからオリザが倒れてしまったではないかと農民が抗議したという話があるのです」「最後の噴火のコントロールもそのためには犠牲になる人がいるわけで、自然の怖さを示しています」(172ページ)と説明しています。そういう読み方もできるのですね。それはブドリについてではなく賢治についてですが。
 あとがきで「あの大きな災害から二年半を経過した今、科学者が変わったようには見えません。震災直後は、原発事故のこともあり、科学者・技術者の中にある種の緊張が生まれ、変わろうという意識が見られたのですが、今や元通り、いや以前より先鋭化し、日常や思想などどこ吹く風という雰囲気になっています」(242ページ)とされているのが、著者の、そして多くの人にとっての実感でしょう。悲しいことですが。


中村桂子 岩波新書 2013年8月21日発行
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