なあむ

やどかり和尚の考えたこと

おさいど

2010年01月15日 22時46分48秒 | 宿用院

14日は宿用院の「お焚き上げ」でした。

1年間のお札や位牌、塔婆、お守りなどを供養して焚き上げます。立ちのぼる炎を見るのも心惹かれますが、小さくなった残り火を静かに囲んでいる時間も好きです。

人間は太古の昔からこうやって火を囲んで生きてきたんだろうな、と、DNAをなぞるような安らぎを感じます。

15日は松林寺の「おさいど」でした。

昔ながらに藁で塔を作って火をつけます。以前は、子どもたちが村中から藁を集めて、田んぼに大きな塔を建て、大勢が集まって、腹をあぶったり背中をあぶったり、たばこに火をつけたり習字の半紙を燃やしたり、賑やかにした記憶があります。

080113_21120001 今は寺の駐車場で1メートルほどの小さな塔で、ごく内輪のおさいどになってしまいました。

「おさいど」は「お柴灯」で、神仏に供える燈明の意味でしたが、「護摩柴灯」などのように仏教の祈祷に使われてきました。

村々では、1年間の邪気を払ったり、健康を祈願したりの行事となって冬の楽しみにもなってきたのでしょう。


細谷亮太先生

2010年01月13日 15時36分27秒 | 今日のありがとう

今日13日の山形新聞に、松林寺集中講座においでいただいた細谷先生が大きくとりあげられていました。

細谷先生には、先日の日曜日、休日当番診療で、宿用院に来ている友人が診察していただいたばかりでした。

と、今日の午後、「細谷先生が『徹子の部屋』に出ているよ」という情報が寄せられ、細谷先生づいていました。

山形新聞の記事は「ずっと優しくあるには」というタイトルで、子どもの優しさについての内容でした。

「人間の遺伝子の中には人に優しくする気持ちが入っている」、でも思春期は「優しさのアンテナをたたんである」、「本を読んだり映画を見たりして感動する、泣けるのは優しい証拠」と語っていました。

是非お読み下さい。

Img


2010年01月08日 11時59分00秒 | 家族模様

昨年、師匠の本葬の前々日、片付けものをしていて左足親指に重い物を落としひどい目に遭いました。病院に行って爪の上から針を刺して血を抜いて何とか本葬は乗り切ったのでした。

「爪も死んでいないようだし、このままで大丈夫でしょう」と医者もいうので、そのつもりでいましたが、ここ最近、爪の端から汁が出てくるような症状が出て、少し痛みも感じるようになっていました。おそらく爪が死んでいて剥がれてくるのではないかと思っていましたら、何と、昨日、パッカリと剥がれました。

昨日は葬儀もあって一日足袋を履いていました。夜に足袋を脱ごうとした時に、爪が足袋に張り付いているような感じがあったので慎重に脱ぎました。脱ぎ終わって指を見たら、爪がない!

エッと思って足袋の中を見たら、内側にペッタリとそのまま張り付いていました。

写真に撮って皆様に見てもらおうと思いましたが、グロテスクなのでやめました。

指には、新しい爪が2割ぐらいのところまで伸びてきていますが、あと8割は肉なので、ぶつかると少し痛みがあります。

爪は約1年で生え替わると聞いたことがあるので、2割の爪にも納得しています。

ということで、今しばらくは注意しながらの生活となるでしょう。

「雲水道中記」が終わってから、ブログに書くことに詰まっていたのでつまらないことを書いてしまいました。ご不快をお許しください。


叱られた恩

2010年01月07日 22時38分46秒 | 宿用院

今日は宿用院で葬儀でした。

孫代表のお別れの言葉で、「じいちゃんは厳しい人でした。よく叱られました。食事の時、行儀が悪かったり、わがまま言ったりすると、げんこつで叩かれました」とのこと。

葬儀終わってから話しました。

「叱ってくれたのはじいちゃんの愛情でしたね。かわいい孫娘をげんこつで叩いて叱ってくれるようなおじいさんは今いなくなりました。立派な大人に育てるため、愛情をもって叱ってくれたのでしょう。今はおじいさんもお父さんも、みんな子どもから好かれよう、いいじいちゃんになろうとするものだから、小遣いをあげたりして誰も本気で叱ってくれない、だからこんな日本になってしまったのではないでしょうか。本当に子どもの幸せを願うなら、たとえ自分は嫌われようとも、しっかり叱らなければならないのだと思います。きっと亡くなってからじいちゃんのお陰に気づくことでしょう」

「個性を大事にする」「個性を伸ばす」ということが大事な子どもの育て方のように言われます。確かにそれも大事でしょう。しかし、人間が社会の中で生きていく以上、社会の常識はある程度身につけておくべき事柄です。常識も教えずに個性だけを大事にすることは社会に中で生きていく術を教えないということになるでしょう。当然社会の荒波の中でおぼれてしまいます。

最近の自殺相談の若い人々の話を聞いても、そのことを強く感じます。


寒念仏とテレホン法話

2010年01月05日 20時57分23秒 | 松林寺

毎年、寒の入りのこの日は「寒念仏」を行います。寒修行の慣わしで、念仏を唱えて先祖の供養をいたします。特に、ここ3年間に亡くなった新しい仏様をこの寒念仏で供養するという習慣になっています。

Dvc00214 今晩も、寒風吹きすさぶ悪天候の中、大勢の皆様が集まってくれました。

私も今年は、師匠が新しい仏様の仲間入りですから、念入りに御詠歌を唱えます。

通常の念仏勤行の他、最上三十三観音霊場の御詠歌を五番毎に唱えると、1時間ちょっとかかります。

終わって少しお話をしていましたら、梅花講の事務局からメモ用紙が回ってきました。曹洞宗のテレホン法話の案内でした。

そうでした。また忘れていました。今日から私の当番の法話が始まったのでした。内容はこのブログでも書いていることなので、代わり映えしませんが、よかったらプロの朗読を聞いてみて下さい。

電話0120-508-740。期間5日~11日まで。24時間OK。


もう一人の遷化

2010年01月03日 19時51分15秒 | 今日のありがとう

昨年は、大事な人から身近な人、お世話になった方まで、私の周りで色々な方々が亡くなられました。

そのお一人に長野県の藤本幸邦老師がいます。

松林寺で毎年の正月にお配りしているポスターの作者です。

543pyh 老師のお名前は知らなくとも、老師の作られた、観光地のおみやげ物にもなっている「はきものをそろえると、こころもそろう・・・」という詩はご存知なのではないでしょうか。

シャンティ国際ボランティア会の顧問でもあり、生前大変お世話になりました。

昭和22年、たまたま通りかかった上野駅で、老師は3人の戦災孤児に出会いました。持っていたリンゴ1個を与えると3人は、一口かじっては隣の子に渡し、その子も一口かじっては別の子に渡すというように仲良く食べました。その様子に感動した老師は、そのまま見捨てておくことができず、「寺に来て学校に行かないか」と誘って長野に連れて帰りました。

母親と結婚したばかりの奥様の大反対を押し切り、3人を自分の子どもとして育てることにしました。次の年には「円福寺愛育園」を創設し、以来400名に及ぶ子どもたちを育ててこられた方です。

カンボジア難民が発生するや、子どもたちの姿に心を痛め、何度も難民キャンプを訪問し、多大なる支援を続けてこられました。

カンボジアをはじめ、中国、ネパールにも学校を建設し、昨年12月に数え100歳で亡くなられるまで、世界の子どもたちの教育支援に身命を賭されました。

老師の心を貫いていたのは、「かわいそうな子どもを見捨てておけない」という慈愛の心と、「人を救うのが僧の使命」だという揺るぎない確信だったと思います。

身近に手本となる師に邂逅することができたことは、私にとって大きな僥倖でした。


MOTTAINAI

2010年01月01日 08時55分06秒 | 地球環境

「もったいない」が今年の私のテーマです。

 この言葉は、日本人が古くから使ってきた言葉で、元々の意味は、神仏に対して不届きである、畏れ多い、という意味で使われてきました。それが転じて、ものを粗末にする時などに「ものの本体を失する」という意味で使われるようになりました。

 この言葉が今、意外なところから広がりを見せています。

2005年、京都議定書関連の行事で来日したケニアのワンガリ・マータイさん(環境分野で初のノーベル平和賞受賞)は、日本の「もったいない」という言葉に感銘を受け、この言葉を世界共通の環境問題の合い言葉にしようと、「MOTTAINAI」キャンペーンを展開しているのです。「もったいない」と同じ意味を持つ言葉は世界にないということでしょう。

 経済危機により、職を失い、自殺者も絶えない日本となりました。しかし一方で、毎日棄てられる食物が3300万人分、それを莫大な金額で廃棄しているというのはどういうことでしょうか。

人間は食べられれば生きられるという単純なものではないかもしれません。それにしても、そんな馬鹿げた、実にもったいないことは何とかしなければならないと痛切に思います。そのほかにももったいないことは数々ありますが、せめて食料だけは、もったいないことをしないようにしなければなりません。

 我々の先祖が伝えてきた、世界に誇れるこの言葉を我々が次の時代に伝えられないとすれば、真に「もったいない」ことです。

<wrap type="square"></wrap> もっともっと、みんなで言いましょう「もったいない、もったいない、あ~もったいない」。