
*南薫造 「六月の日」
この文展で二等賞。作者を代表する一点と図録に記載。
漱石評「自分は畠の真中に立って徳利から水を飲んでいる男が、法螺貝を吹いているようだと答えた。それから其男が南君のために雇われて、今畠の真中に出て来た所だという気がすると答えた。自分は此間雑誌「白樺」で南君の書いた田舎の盆踊りの光景を読んで大変面白いと思ったが、此画にはあの文章程の旨味がないと答えた。」
私がこの絵を見たときに最初に感じたのが、人物と背景は別の人が描いたのかということだ。筆のタッチが違う。徳利を飲んでいる人物のがどこからか切り取ってきて貼り付けたように思えた。その次に感じたのが、立っている人物の影が人物の前側にある。刈り取っていない麦の影も左側に出来ている。しかし顔に日が当たっている。刈り取られた麦の山の影は左側には出来ていない。野薔薇に当たる日も刈り取られていない麦に当たる日と反対を照らしている。これはどう見ても不自然だ。
徳利は法螺貝には見えないが、それでもこの徳利は腰にぶら下げていたものなのだろうか、それともそこに置いておいたものなのだろうか。腰にぶら下げていたのなら紐がない。置いておいたものとして、その場が不自然だ。日陰でもないのに、刈り取る畠の途中でそこまで水を飲みにやってきたのであろうか。
このように感ずると漱石の評が決して的外れではないことがよくわかる。わざわざ画家のために徳利を抱えてどこからかこの男が登場してきたとしか思えないのだ。写生のごく基本が忘れられている場面なのだ。

*中村不折 「巨人の蹟」
不折はこの第6回文展に審査委員としてこの作品を出品した。
漱石評「自分は不折君に、此巨人は巨人じゃない、ただの男だと告げたい。きたならしい唯の男だと告げたい」
漱石の評は酷評である。私は何とも不思議な絵に見えた。まず何かの日本とはたまたその他の地域の神話か物語の一場面かと思ったが、解説にも記載が無いので、そうでは無いらしい。
しからば画家が、古代の生活の一場面に想をめぐらしたのかもしれないと考えてみた。そうするとこの男女は何をしているのか、何をしようとしているのか、これを考えなくてはいけないが、その想定も難しい。男女はどういう関係なのか、どうして裸なのか。巨人ということは何に対して巨人なのか。どうして普通の人ではいけないのか。疑問が次から次に湧いてくる。男はその肉体の美や躍動感を誇示しているわけではない。どちらかというと老齢である。女性は男よりかなり若いが若さを誇示するわけでもない。男の老いと女の若さの対比が主題なのだろうか。これは主題となるものなのだろうか。
漱石の評は、この絵の基本的な主題が想定できない、画家の表現意識がわからないというものであると思われる。

*朝倉文夫 「若き日の影」
「本作は作者の21歳になる弟をモデルとした作。「過去の自分をそこに見出した」と朝倉は語っている」とカタログに記載。
漱石評「多少自分に電気をかけた彫刻はただ一つしかなかった。それは朝倉文夫君の「若き日の影」である。そして其「若き日の影」という題を説明するものは一人の若い男であった。彼は両肘を後にして立ちながら何かに靠れていた。自然の勢として彼の胸は前方に浮かざるをえなかった。けれども彼の顔は寧ろ俯向いていた。彼は逞しい骨格の所有者ではなかった。彼の頬が若く柔らかい線で包まれている如く、彼の胸郭の何処にも亦傑張の態がなかった。要するに彼は強い男ではなかった。そうして強い人を羨んでもいなかった。唯生れた通りの自己を諦めの眼で観じていた。自分は彼の姿勢と彼の顔付の奥にある彼の心を見た時、その寂しさ瞑想をも見た。そうして朋友として彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかった。」
漱石の評は最大限の賛辞に聞こえる。筋骨逞しい若者の像ではなく、ごくありふれた若者の像が芸術作品として成立するのか、これはなかなかの質問である。漱石その弱々しくもある若者の心に踏み込んで、「淋しき瞑想」を見て取っている。その心に惚れている。
漱石はこのように絵画にも彫刻にも自己を投入するのだろうか、という風に私は疑問をもった。そんなに入り込んでしまっていいのだろうか、という疑問だ。あまりに自分を投入しすぎたら「批評」などという行為が成立しなくなるのではないのかという疑問だ。
あらためて批評が成立する根拠を漱石がどのように想定しているのかもしりたくなった。