東京十二題「深川上の橋」並びに「こま形河岸」

東京十二題「木場の夕暮」並びに「雪に暮るる寺島村」

東京十二題「大根河岸」並びに「春のあたご山」

本日は特に予定がなかったので、いつもより時間をかけてみなとみらい地区までブラブラと周りのビルの様子をじっくりと見ながら歩いた。そして一昨日人がいっぱいだったと思われる横浜美術館を再度覗いてみた。一昨日よりも多そうな人出を見て、観覧はまたも断念。ミュージアムショップで川瀬巴水のポストカードを追加で6枚購入した。同時に市庁舎のある関内まで再びノンビリ歩いて所用を済ませて帰ってきた。
昨年の12月に大田区立郷土博物館で「馬込時代の川瀬巴水」という展覧会が開かれた。それより前に横浜美術館の「はじまりは国芳展」で初めて川瀬巴水という名を知った(2012.11.03)。
横浜美術館では、「東京十二題こま形河岸」に私はとても惹かれた。そして12月に大田区立郷土博物館で幾つもの作品に接することが出来た。
その時も私は「抒情のある風景」が気に入ったと記載した。その後も折々に作品を見ているのだが、人物が描かれている作品と描かれていない作品で、私の好みは随分違いがあるのに気付いた。
私はどうも人物が正面ないし、横を向いて表情がうかがわれるものよりも、描かれていないか、後ろ向きの作品のほうがずっといいように感ずる。
しかしこれも東京十二題という初期を代表する作品のうち、6枚が私の手元に揃ったのだが、寺島村・木場・深川・こま形と大根がし・あたご山と並べると前者の4枚と後者の2枚と随分差があると思われる。私は前4作品の方がずっといい作品だと思う。景色に叙情性があり、作者の景色に対する思いが伝わってくるように思う。点景としての人物は風景に、背景に自然と溶け込んでいる。点景として生きている。
しかし後者に描かれた人物は、何か安直で、深みがなく、背景・景色に溶け込んでいない。背景や景色と違う時空に存在しているようだ。そんな感想を持つようになった。
「増上寺の雪」

これは戦後1953年の作品。これも右のほうの歩き去っていく後ろ向きの人物は雪の降る中に溶け込んでいる。しかし立ち止まってこちらを向く3人の人物は、多分都電でも待っているのであろうが、風上に背中を向けるなど細かい配慮はしている。しかし背景の増上寺の門とちぐはぐな感じを免れないのではないか。こんなに人物の存在を際立たせる配色が、雪の情景とそぐわないように思う。
川瀬巴水の作品に出てくる景色は懐かしいというだけでなく、風景に寂寥感が漂っていてそれがいい。作者と描かれた風景、特に都市との距離感に惹かれる。描かれた都市生活への親近感と同時に何処となくその都市的な雰囲気への馴染めないもどかしさが感じられる。親和性と疎外感、これらが無い混ぜになっているように感じるのは私だけだろうか。私は、川瀬巴水の風景にとても心惹かれる。
ところが表情の読み取れる人物、去っていく以外の行動を示す人物が描かれると、都会への親和性だけが際立ってくるように感ずる。それらの人物すべてが、この風景、特に都会の情景に妙に肯定的なのだ。
こんな感想は、私だけなのだろうか。とても心もとないのだが、あくまでも個人的な感想として書き留めておきたい。

東京十二題「木場の夕暮」並びに「雪に暮るる寺島村」

東京十二題「大根河岸」並びに「春のあたご山」

本日は特に予定がなかったので、いつもより時間をかけてみなとみらい地区までブラブラと周りのビルの様子をじっくりと見ながら歩いた。そして一昨日人がいっぱいだったと思われる横浜美術館を再度覗いてみた。一昨日よりも多そうな人出を見て、観覧はまたも断念。ミュージアムショップで川瀬巴水のポストカードを追加で6枚購入した。同時に市庁舎のある関内まで再びノンビリ歩いて所用を済ませて帰ってきた。
昨年の12月に大田区立郷土博物館で「馬込時代の川瀬巴水」という展覧会が開かれた。それより前に横浜美術館の「はじまりは国芳展」で初めて川瀬巴水という名を知った(2012.11.03)。
横浜美術館では、「東京十二題こま形河岸」に私はとても惹かれた。そして12月に大田区立郷土博物館で幾つもの作品に接することが出来た。
その時も私は「抒情のある風景」が気に入ったと記載した。その後も折々に作品を見ているのだが、人物が描かれている作品と描かれていない作品で、私の好みは随分違いがあるのに気付いた。
私はどうも人物が正面ないし、横を向いて表情がうかがわれるものよりも、描かれていないか、後ろ向きの作品のほうがずっといいように感ずる。
しかしこれも東京十二題という初期を代表する作品のうち、6枚が私の手元に揃ったのだが、寺島村・木場・深川・こま形と大根がし・あたご山と並べると前者の4枚と後者の2枚と随分差があると思われる。私は前4作品の方がずっといい作品だと思う。景色に叙情性があり、作者の景色に対する思いが伝わってくるように思う。点景としての人物は風景に、背景に自然と溶け込んでいる。点景として生きている。
しかし後者に描かれた人物は、何か安直で、深みがなく、背景・景色に溶け込んでいない。背景や景色と違う時空に存在しているようだ。そんな感想を持つようになった。
「増上寺の雪」

これは戦後1953年の作品。これも右のほうの歩き去っていく後ろ向きの人物は雪の降る中に溶け込んでいる。しかし立ち止まってこちらを向く3人の人物は、多分都電でも待っているのであろうが、風上に背中を向けるなど細かい配慮はしている。しかし背景の増上寺の門とちぐはぐな感じを免れないのではないか。こんなに人物の存在を際立たせる配色が、雪の情景とそぐわないように思う。
川瀬巴水の作品に出てくる景色は懐かしいというだけでなく、風景に寂寥感が漂っていてそれがいい。作者と描かれた風景、特に都市との距離感に惹かれる。描かれた都市生活への親近感と同時に何処となくその都市的な雰囲気への馴染めないもどかしさが感じられる。親和性と疎外感、これらが無い混ぜになっているように感じるのは私だけだろうか。私は、川瀬巴水の風景にとても心惹かれる。
ところが表情の読み取れる人物、去っていく以外の行動を示す人物が描かれると、都会への親和性だけが際立ってくるように感ずる。それらの人物すべてが、この風景、特に都会の情景に妙に肯定的なのだ。
こんな感想は、私だけなのだろうか。とても心もとないのだが、あくまでも個人的な感想として書き留めておきたい。