Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

メンデルスゾーン「バイオリンソナタ」2曲

2014年12月10日 23時15分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 Nさんの葬儀の件、明日も朝10時までに葬儀社におもむく必要が出てきた。葬儀社には迷惑だろうが、いろいろと変更をお願いする項目が出てきた。宗教性を一切排除した友人達による葬儀を実践したいというのが、故人の意志でもあり、私たちの思いでもある。
 参列者もほぼきまり、「通夜」式はほぼフリートーキング形式で、献花の後は食事会は立食形式へと簡略化する。「告別」式も2人だけの送別の辞と再度の献花で終了とすることになった。
 ここまで簡略化すととなると、費用の点と自由な形式の葬儀という観点からは、最初から密葬形式、後日公的な場所を借りてお別れパーティーという形の方が良かったかもしれない。想定しきれない突然の葬儀、なかなか事前には準備しきれない。今後の教訓にしないといけない。

      

 本日聴いている曲は、メンデルスゾーンのバイオリンソナタのヘ短調作品4と、同じくヘ長調作品番号なし、の2曲。作品4の方は1823年の作曲でメンデルスゾーン14歳の時の作品。これが14歳の時の作品と聞くとびっくりしてしまう。天才といわれた作曲家の早熟ぶりがわかる。解説ではベートーベンの影響を強く受けていると記載してある。全体的に均整の取れた曲である。バイオリンの高音が美しいメロディーが多用されている。
 後者の作品番号のついていない曲は、1838年の作曲でメンデルスゾーン29歳という円熟期の作品。出版されたのは死から6年経っている。この曲がささげられたバイオリン奏者フェルディナンド・ダヴィートは後に有名なメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲もささげられた。第1楽章から一気に聴く人を魅了してしまうようにバイオリンの音は輝かしく美しい。

 ブラームスの曲を聴きなれた耳にはあまりに明るい曲想に大いに戸惑う。

二代目高橋竹山「海をわたる女唄シリーズ(その3)

2014年12月10日 08時41分22秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 昨夜は「二代目高橋竹山 「サラヴァ東京」第4回リサイタル「海をわたる女唄シリーズ(その3)」を聴いてきた。
 私はこの「海をわたる女唄シリーズ」は3回とも聴くことが出来た。毎回新しい曲を第二部の始めに入れている。今回は第一部の後半に、芭蕉の弟子惟然の始めたという風羅念仏を三味線と唄で復元する試みをした。それを江戸末期の井上井月の句を使って「井月風羅念仏」(井月バージョン)とする試み。
 井上井月は復本一郎氏の神奈川大学のエクステンション講座で取り上げていて、岩波文庫の井月集に目をとおしている。しかし昨晩取り上げていた句は、私は注目していない句ばかりで記憶に残っていなかった。女性ならではの視点からの評価ということなのだろうか?しかし目にしてみるとなかなかいい句だ。俳句の鑑賞の仕方と、「女唄」として見る鑑賞との差かもしれない。
 「南無阿弥陀仏」がさらに簡略化された「なもうだなもうだ」という繰り返しが、祈りの原型のように繰り返される。そのことによって酒と漂泊と放浪の芸能から、定住する庶民の祈りの形に、あるいは現実からあの世への架橋の手だてへと、高揚し変化していく。
 これは日本というユーラシア大陸の東端の世界だけの減少ではなくユーラシア大陸の西のアイルランドの民族の基層にも通じ、あるいは人類の祈りの形の普遍的なあり方にも通じることを思わせてくれる。それがアイルランドの現代詩人ヌーラ・ニー・ゴーノルの詩を通じて、思念として馳せていく。なかなか刺激的なライブである。
 今回は同じ詩人の「イー・ブラシル」という短い詩にも曲をつけていた。日本海の暗い情念を駆り立てるようなイメージと、このアイルランドの海の持つイメージの共通性に着目していると思える。たぶん海の持つ女性性、あるいは母性が最後のフレーン「おいで おいで/わたしのもとへ 全ての/弊(つか)れた者たちよ」に暗示されている。そんな風に理解した。
 同時に民話の世界の共通点としてあげられた「海の向こうの異界・楽園」と、こちら側の世の苦しみ多き現実、といった観念からの理解も可能であろう。
 「女唄」というこだわりからすれば、どちらがよりイメージが膨らむのであろうか。

 最後の曲も第1回から唄われ続けている「ファラオの娘」。これは私も回を追うごとにだんだん引き込まれていく。初回よりも2回目、さらに3回目と少しずつ唄い方も進化しているように感じる。次第に磨きがかかった来たという風に思える。
 「みんなが言った」は3回続いて謳われているが、私の頭ではどうもこれが理解できない。前回の解説に「「噂話」の暴力を、言葉の繰り返しによって身を守る「魔力」に変える」とあったのだが、この「変える」ところが演奏のどの場面に相当するのか、がどうしてもわからない。私の頭が固くなってしまったのだと思う。理屈で考える悪い癖なのだろう。言葉にとらわれずエネルギッシュな三味線と唄とピアノのコラボを「音」として楽しめばいいのかもしれない。
 この3ヶ月ごとのライブは私にとっては常に刺激的なライブである。