Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は大晦日

2014年12月30日 23時18分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 例年のとおり大晦日といっても大した感慨もなく新年を迎えることが多い私である。今年もそのような流れになりそうだ。

 さて、ホドラー展の第2回目をどうゆら書き終わった。明日第3回目を何とかアップして年内の宿題を終わらせたら、気持ちよく正月を迎えられそうである。これが今年の大晦日の感慨といったところか。

 本日は夕方からウォーキングに出かけ、往復で1万8千歩ほど歩いた。その他も合わせて2万3千歩ほど。これだとかなり草臥れる。理想は目標の2万2千歩の1万歩(7キロ)ほどをウォーキングのスピードで全力で、この季節でもウィンドブレーカー1枚で汗をたっぷりかいて歩きたい。残りの1万歩(6.5キロ)は薄手のコート1枚程度で汗をうっすらかくくらいの速さで、買い物や講座に出かけるための早目のタウンウォークでこなすのがいい。残りの2~3千歩は買い物や建物の中での歩行で費やされる歩数である。この割合ならばあまり疲れることもなく、毎日でも続けられる。
 しかし講座などが無い日は結局全部ウォーキングでこなすことになる。もっともこの時はいつもに増して爽快な気分になれる。
 さらに本日は久しぶりにウォーキングの途中2キロほどを軽く走ってみた。太ももと脹脛の筋肉に負担がかかっているようなので無理はしなかったが、これから春にかけて少しずつ走ることを復活させていきたい。

バッハ「管弦楽組曲」全4曲

2014年12月30日 22時01分19秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 昨日に引き続きバッハを聞いている。本日は管弦楽組曲全4曲。トン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック管弦楽団。第2番のためにフルート奏者にウィルベルト・ハーツェルツェトを迎えている。
 どの曲もどこかで大体が聞いたような気分になる。バッハらしい華麗で多様な曲想が次から次に湧いて出てくるように奏でられる。この曲を聴いてクラシック音楽に嵌った、という友人もいる。それほどポピュラーで耳に心地よい曲である。毒にフルート協奏曲のような第2番に愛着のある人も多い。私はブランデンブルグ協奏曲がクラシック音楽を自覚的に愛好するようになった最初の曲であるが、その次が、ヴィヴァルディの四季と、高校の時に友人に教わったこの曲である。
 私は第3番の第2楽章の「エア」が好みである。第1バイオリンの長い旋律が美しい。

      

「ホドラー展」の感想 その2

2014年12月30日 15時00分06秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ホドラーの描く風景画は、ごく初期の習作時代のものを除いてとても魅力的である。この風景画には3つの流れがあるように思える。

 

 21日の「その1」でも掲載した2枚の絵をはじめとしてここに掲げた「小さなプラタナス」(1890)など1885年以降1900年代くらいまでの風景画である。明るく初期印象派風の作品であるが、樹木が生命の象徴として孤独の影を背負って立っている。自然の中の孤高の樹木、といっても樹高の高い自然に対して屹立している樹木ではない。孤立感が強い。
 一方で明るい空、太陽に輝く幹、秋の黄葉のような鮮やかな色合いから、ホッと一息つきたくなるような風景としてとらえることもできる。
 冬へ向かう樹木の生と死を思い浮かべると同時にその前の一瞬の鮮やかさに注目して見る見方も当然ある。ホドラーの指向はどちらだったのだろうか。他の2点から私は前者を考えたが‥。
 しかしこれらの絵には物の質量感があまり感じられない。

   

 1910年代後半から現われる峻厳なアルプの山のいただきを描いた一連の作品は厚塗りで、しかも岩の重量感、質感にこだわった作品である。そしてセザンヌの岩の表現をさらに推し進め、リズム感のある岩の面が躍動感を見せてくれる。このリズム感によって自然に生命感が宿っているようにも思える。
 私の好みでは後光のような、窓枠効果にこだわったような白い雲に違和感がある。しかしそれを凌駕して、緑と茶の岩肌と白い雪の面に惹かれる。特にユングフラウを描いた「ミューレンから見たユンクフラウ」(1914)に惹かれる。



 「シャンベリーの渓流」(1916)もこの流れの一連の作品であろう。沢の岩と黄葉して日に映える森の木々の連なりへの着眼が私の好みである。解説によれば、「屍のような岩は死の象徴であり、一方で勢いよく流れる水は生の象徴である。渓流はまさに生と死が拮抗するドラマティックな舞台であり、そこにホドラーは自らの思想を見出した」とある。
 そういえばこれまでの絵も含めて「生と死の拮抗」という観点からの絵の鑑賞も成り立つかもしれない。

   

 次の流れは2番目の質感が前面に出た風景画がひとつの山の頂や渓流に的を絞った作品であるのとは対照的に、山並みの遠景、それも湖の向こうに見える風景画の流れである。山よりも湖の広さが主題のような作品群である。
 はじめにかかけだのが「シェーブルから見たレマン湖」(1905)の作品。次が「トゥーン湖とシュトックホルン山脈」(1910)などの作品である。絵の具の塗りは薄く、淡いぼかしたような色調である。グラデーションが微妙な遠近感を表現している。
 これらの作品群は湖に移る山並みや雲の上下の対象が構図のポイントになる。パラレルというよりも線対称=シンメトリーな関係に着眼している。これは若い頃からすでに表れている傾向でもある。同時に山並みのリズミカルな頂きの連続=稜線の躍動感を感じる。
 しかし山の頂きや岩などの質感にはこだわりが見えない。画家の指向の一側面ということなのだろうか。ここでも前者の雲の徳地陽ある描写は、様式化、デザイン化された形態だがこれは私には違和感がある。
 この流れの風景画は1910年代の前半に集中しているようだが、最晩年の1916から死の1918年にかけて美しい太陽光を背景として色彩豊かに、さらに質感も添えてこの風景画が再現する。画家がもっとも描きたかった風景画のあり様なのかもしれない。



 「白鳥のいるレマン湖とモンブラン」(1918)は湖には山の影は描かれていないが、代りに白鳥が「感情3」の女性像のようにリズミカルな配置で描かれている。夕景が朝の景色かはわからないが太陽の橙色の光線が美しい。また山のどっしりとした量感が何とも美しい。版画を思い浮かべたり、ムンクの絵を思い出したりもしたが、やはりホドラー独特の絵である。

夜から再び雨

2014年12月30日 00時51分07秒 | 天気と自然災害
 結局夜になり弱いけれども雨がまた降りだした。雨の音がしないので、22時過ぎに軽くウォーキングをしようと支度をして外に出たが、断念。パソコンの前でボーッとしていたらそのまま眠ってしまった。今はもう雨もやんではいるようだが、この時間はウォーキングをする時間ではない。
 いつの間にかはや30日。関東地方では明日は陽射しがもどるらしい。

 昨日は朝から、アンドロイドのスマホからツイッターにログインできない状態がつづいた。午後3時過ぎにようやくログインできた。この不具合は私だけではなく、いろいろな方に出現したようだ。
 幸いパソコンからのログインは通常通り問題は起きなかった。しかし運営の方からは何の連絡もない。このような状態がたびたび起きるて、対応が目に見えないと、信頼をなくすと思う。