印刷作業をしながらメンデルスゾーン(1809~47)のピアノ三重奏曲の第1番と第2番を聴いていた。演奏はボロディン・トリオといい、旧ソビエトで有名であったボロディン弦楽四重奏団の第1バイオリン奏者がアメリカに1976年に亡命して結成したトリオらしい。録音が1984年となっており1980年代の後半にこのCDを購入したと思う。友人にこのボロディン・トリオはいい演奏をするのでお薦めだ、と云われて購入した記憶がある。
確かにピアノ、バイオリン、チェロの音量のバランスがいい上に、バイオリンとチェロの音色も好みである。しかしやはり当時もメンデルスゾーンの音楽に興味が湧かなかったようで、数回だけ聴いてそのままにしてあったと思う。
メンデルスゾーンは38歳に亡くなっているので、ピアノ三重奏曲第1番は作曲家が円熟期である30歳の時、第2番は晩年の36歳の時の作品である。解説によると11歳の時にやはりピアノ三重奏曲を書いているらしいが、通常はこれには番号はついていない。
第1番は覚えやすいメロディーが続き、楽器の特性をつかんでよく鳴るように作られていると感じるが、この感想は当たっているのだろうか。
第2番は第1番に比べ少し哀調を帯びた旋律が第2楽章にあらわれる。重厚さも感じる。第1番に比べて演奏される機会が少ないと解説にあるが、私はこちらの方がずっといいと思う。4つの楽章が起伏に富んだ構成である。第4楽章の冒頭のチェロの旋律も、3度のユニゾンも美しい。
しかしどうも私はすぐに飽きてしまう。メロディーも美しいし、楽器のバランスもいい。よく楽器が響いていて心地よい曲である。だが、どうも物足りない。
音楽評論家は作曲家に対しても演奏家に対しても「精神性が高い」、「作曲家の苦悩が感じられない」などという評価を述べることがある。
私はこのような批評を安易に語る批評家はまず信用しないことにしている。つい「「精神性」や「苦悩」って一体何なんだ?」と茶化したくなるのをこらえている。なんか言ったように思えてそれで終わってしまう便利な言葉である。その実、何も語っていない。苦悩や精神性など生きている人間ならば誰もが人間関係の処理で思い悩み、苦悩する。何も偉大な人間ばかりの専売特許ではない。人生全般の苦悩がそのまま絵画や音楽やの芸術表現にそのまま反映するなどということはあまり信用しない方がいいと思っている。新しい表現を獲得しようとする苦闘はどの表現者も必死で挑戦しているのである。また精神性が高い低いなどという判断ほどいい加減なものはない。
メンデルスゾーンの音楽を徹底的に聞き込んだわけでもなく、音楽表現のプロでもない私であるが、メンデルスゾーンの音楽には私は危うさがないと思っている。たとえばメンデルスゾーンが19世紀のモーツアルトと称されるように天才肌の人であるといわれる。しかしモーツアルトの音楽が音ひとつを取り去ると全体が崩壊してしまうような危ういけれども緊密で、精密機械のような音楽が構築されている。この危ういというのがモーツアルトの音楽が好きな理由である。
一方でメンデルスゾーンのメロディもリズムもあまりに安定していて、新しい何か、というのを感じないのは私だけだろうか。美しい旋律の音ひとつを取り去ればそれで音楽は確かに崩壊してしまうかもしれないが、それでも安心して聞いてしまう。緊張感をもって聴き続ける、ということがない。曲そのものが、安定してしまっている。
安定ということはひとつの価値であるかもしれない。しかし私にはこの安定という言葉が、鑑賞するときの大きなマイナス要因に思えてしまう。
素人の私の感覚で、綿密な考証をしたわけではないので、恥ずかしい頓珍漢があるかもしれないが、許していただきたい。
メンデルスゾーンの音楽にこんな感情が湧いてきた。これはやはりしばらく遠ざかった方がよさそうな気配である。ひょっとしたら限られた曲しか聞いていないから、こんな感想を持ってしまうのだろう。これ以外に私が持っているメンデルスゾーンのCDは無言歌集の一部だけである。しかしこれ以上はしばらくは購入しない方がいいかもしれない。