Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

浅間山荘事件から47年

2019年06月06日 22時21分07秒 | 読書
 本日の飲み会はこれにて終了。家に何事もなくたどり着きたいもの。
横浜駅から歩いて帰るか、近くの私鉄の駅経由で帰るか、バスを利用するか、酔った頭で考えると面倒になる。
 明日は、少しでも読書タイムを確保したい。来週の予定であった降圧剤の処方を兼ねて、明日の7日は、無料でしてもらえる国民健康保険の健康診断を受けてみることにした。

 昨晩NHKのテレビで「連合赤軍47年後の告白」を見た。私は全共闘の追体験のような運動に参加してきたので、まったく予定をしていなかったが、テレビを最後まで見てしまった。あの「武装闘争」路線とは無縁な世界にいたので、私には何も語る資格も無いのだが、同時代を経たことは間違いがない。苦い、そして口の中が焼けるような嫌な思いが先に立つ。あってはならないこと、と思っていたことが現実に起きてしまった、ひょっとしたら自分は無縁だと思ってはいても、「もしかしたら自分だったかもしれない」という思いがゼロではない。
 私はそれぞれが自分の頭の中で勝手につくりあげてしまった「人民」や「革命」という観念に逆規定されることからは自由でありたい、と思って運動に参加した。既成左翼にはない新左翼の自由闊達さにあこがれたものでるが、そうではない人々がいることに運動の中でおおいに違和感を持ちながら、自分なりの開かれた運動を作ってきたつもりである。
 だから今さら、という気持ちも強かった。
 だが、同時代ということで、まったく自分が無関係だと、コメントを拒否することもしない。いつまでも引きづってどこかでこだわっていることは確かである。
 今はまだ、この程度を語るにしたままでいたい。いつか、もう少し語りたい、とは思っている。

鉄道事故

2019年06月06日 19時31分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
これより飲み会の二次会。市営地下鉄は朝の脱線事故で、終日折り返し運転。影響は取り敢えず最小限で済んでいる気配である。
大きな事故の場合、利用もしていないのに、駅まで見に行って混雑を助長している人がいるのだそうだ。先程の一次会での情報である。
私には理解できない人がいるものである。昔は怪我人が出たときに備え、救護で付近の人が活躍したというのは、よく聞いた。しかし物見というのはいただけない。

怖い話

2019年06月06日 14時14分55秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 ツイッターにこんな記事が載っていた。【⇒https://netallica.yahoo.co.jp/news/20190605-39607873-careercn
 内容は、「公園で見かけない男がスマホをいじっているので、盗撮だ、と警察に通報した女性のグループがおり、トラブルになった」との記事である。警察官が出動し、男が「自分は座っていただけ」と怒り、警察官が通報者に「公園で休憩するのに許可はいりませんので」となだめた、とのことである。
 この記事が実際にあったのかどうなのか、の検証はできないが、実際のことと頷けた。というのも私も現役のときには、公園管理の業務の第一線におり、似たようなことがたびたびあったからだ。
 最近このような事案が増えていて過敏で過剰な反応が多いのか、あるいは社会があまりに他者に不寛容になっているのか、どことなく今の社会の現状を象徴的に表しているようなとらえ方もあながちハズレてはいない。
 だが果たしてこのような通報が最近始まったのかというと、そうでもない。ただし数が増えたかどうかは、すでに8年も前に退職した私にはわからない。

 私が現役のときに、この手の苦情で二つ印象に残っているものがある。
 ひとつは、「公園のペンチで『土方』が弁当を食べているので、子どもが遊べない」という電話を取った。私は「公園のベンチは誰でもが使えますし、お昼休みや休憩でベンチを使うのは問題ありません。子どもを追い出して大人がキャッチボールなどをしていれば注意しましょう」というふうに答えたが通報者は納得しない。
 ようするに作業服を着た知らない人がいるので、自分の子どもを遊ばせるのに不安だというのである。とりあえず「公園を見に行った上で回答」するので名前と電話を教えて欲しい、といっても匿名のままで電話を一方的に切られた。
 私も昼休みだったが、職場から歩いて10分ほどの住宅街にある狭い公園だったので行ってみた。公園のベンチ6つほどのベンチの3つほどを営業マンらしい人と、近くの建築現場の作業員らしい人あわせて5人ほどが弁当を食べ終わって雑談したり、居眠りをしていた。子どもはお昼時なのでだれもいない。
 雑談している作業員に「子ども連れの女性とトラブルになったのか」と聞いてみたが何もなかったようにキョトンとしていた。特に問題もないので、公園を一周し、周囲の家々も見回して戻ってきた。
 電話は一方的に切られたので、公園利用の原則などの説明できなかったのだが、要は「土方」という人を蔑む予断と偏見、見知らぬ人に対する漠然とした不信感、である。子どもの父親も、あるいは自分の親も、きっとどこかの公園でお昼のひとときにささやかな休息を取っているかもしれないことに思いが至らない人なのであろう。子どもの安全は気になると思うが、よくよく観察すれば、そのような人々ではないことはすぐにわかる状況であった。
 二つ目は、細長い公園について「公園の入り口の車止めが邪魔なので、自転車で公園が通過できない。朝の急ぐ時に駅まで公園を迂回しなくてはいけない、公園内を自転車が入れるようにしろ」という怒りの電話であった。
 当然にも「利用者、とくに子どもの安全の確保の観点から車止めは撤去できない」旨伝えたが、この電話主も怒鳴り散らして一方的に電話を切った。
 人は自分の利便性については、他者のことが頭から消えてしまいがちである。他者への配慮が出来なくなり、自分の意見を客観的に見直すことができなくなるようだ。自分や隣近所の子どもがこの公園を利用しているかもしれないという想像ができないのだ。
 多分のこの電話の主は、道路上でも危険な自転車の走行を繰り返しているのかな、と思ってしまう。あるいは電話だから怒鳴り散らしてしまい、意外と面と向かうとそうでもないのかもしれないなどと同僚と話をしたのを覚えている。

 このように先ほどのツィッターの記事のような事例は、繰り返しになるが残念ながら現役時代にも間違いなくあった。もっと昔からもあったと思われる。電話だとかなり強い口調で一方的にまくしたてられるが、実際に公園で市民を話をしていると、言葉の端々からそれとなく静かな口調であっても同じような要望が語られる。
 だが、多くの場合それらを文章にして「要望書として皆さんの意見をまとめてください」というとこのような意見や要望は消えて、建設的でよりよい公園にするための要望になって提出してもらえる。町内会、PTA、子供会、近所のグループ、保育園の保護者会などで意見を皆でこなすと、極端な意見や他者への配慮を欠いた意見や要望は消えることが多かった。
 個人の配慮を欠いた意見はそれなりに淘汰されて、社会の水面に躍り出ることは少なかった。

 だが、これまでもあったようなことが、あえて語られるのどういうことなのだろうか。ツィッターの記事は、スマホをしている人と周囲の状況を観察すれば、「不審」かどうかなどすぐにわかるものである。またさまざまな人と意見を述べあいながら結論を出していく、というよりも付和雷同的に同調圧力で流されていく危険も最近は強いのかな、と思う。

 最近、「公益」を私物化して当然というような政治が横行する中、先ほどの記事が現代を映すシンボルのように語られるのだろうか。「公共・公益が自分のごく狭い範囲だけの論理・利害」で回ってしまっていないか。その弊害が社会全体を覆っていないか、という危惧のように。
 「利益を生まない時間・空間は無駄」として「限定された者だけを対象にした空間・時間」に変えられ、ひとびとの持つ多様性がどんどんそぎ落とされていく傾向に、私は危険を感じている。誰でもが享受できる空間・時間を提供する公園などを、利益を上げるためにテーマパークにして入園料を取ってしまうようになったり、と何とも息が詰まるような都市に変わりつつあると思う。
 公共・公益が利益を産ませる時空に変質し、一握りの人に握られる。そしてひとびとの多様性が許されなくなる。権力者や極端な富裕層が所有していた広大な庭園・住居などの空間を、都市全体の公共空間として解放してきた歴史を逆に回してしまっている。公園などの自由使用を基本とする公共空間は、排除の思想に支配されてはいけない。現在これが危うい。
 もしもそれが正しい直観ならば、現代の日本の社会は極めて危ない水準に至っているともいえる。国家としても社会としても極めて危険な水域ではないか。


 実は私の経験した一つ目の電話以来、私は定年まで昼当番の時は、職場の近くの別の小さな公園でわざと13時から昼休みの休憩を取ることにした。多くのサラリーマンや職人たちが利用している空間は、私にとっては好ましい公園に映った。むろん小さな子どもも遊び、親もいる。木々や草花も楽しめ、私には充実した1時間に感じられた。その数年間はその公園でトラブルなどなかった。