本日は家にほぼ閉じこもり、ウトウトしたり、起き出して読書をしたりとのんびりと過ごした。何事もしないと時間の経つのは早い。あっという間に23時を過ぎてしまった。

本日読んでいた本は「星の文学館 銀河も彗星も」(和田博文編、ちくま文庫)の「4.天体観測と星座」「5.宇宙の深淵」。
埴谷雄高と谷川俊太郎、宮沢賢治以外は初めて読んだ作品ばかり。三浦しをん、中村紘子、岡本かの子、尾崎喜八は読むことも初めて。埴谷雄高の文章は少なくとも3回はこれまで目にした。
岡本かの子の文章はなかなかいい文章だと感じた。冒頭から引き込まれた。
「大洋を後悔してゐるとき闇夜の海上の彼方から一点の光がこちらに向かつて近づいてくる。何であろうと一心にそれを見守つてゐると、突然のその光の下に黒々とした山のやうな巨船の姿を見出してびつくりしたことがある。星を見つめてゐると何か判らない巨大なものがその星を乗せてこちらに迫つて来るやうな気がする時もある。さういふ錯覚は一種の恐怖に似て神秘的な楽しさである。星の瞬きは太古から人間にいろいろな暗示や空想を与へてゐる。」
巨大なものが星を乗せて迫ってくる、という感覚は私も共通な感覚であった。小学校に入ッタばかりの頃の私の場合は、巨大なものが巨大な虚無、果てしなく深い尺度の時間と空間を抱えて私を飲み込んでしまうのではないか、という恐怖であった。それは中学生になるまで続いた。
大江健三郎の「宇宙のへりの鷲」は大江の文学論として興味深く読んだ。
「宇宙論的な構想というように、極大のところから出発して架空の物語をつくり出そうとする場合(‥)、いったいその小説は、現にいまこの時代を生きている書き手の、状況にかかわっても、本質にさかのぼっても、決して他の人間といれかえ可能でない、その肉声をどうすれば響かせることができるのか?」
この問いの前に多くの人はたじろいで書くことを断念するのである。


本日読んでいた本は「星の文学館 銀河も彗星も」(和田博文編、ちくま文庫)の「4.天体観測と星座」「5.宇宙の深淵」。
埴谷雄高と谷川俊太郎、宮沢賢治以外は初めて読んだ作品ばかり。三浦しをん、中村紘子、岡本かの子、尾崎喜八は読むことも初めて。埴谷雄高の文章は少なくとも3回はこれまで目にした。
岡本かの子の文章はなかなかいい文章だと感じた。冒頭から引き込まれた。
「大洋を後悔してゐるとき闇夜の海上の彼方から一点の光がこちらに向かつて近づいてくる。何であろうと一心にそれを見守つてゐると、突然のその光の下に黒々とした山のやうな巨船の姿を見出してびつくりしたことがある。星を見つめてゐると何か判らない巨大なものがその星を乗せてこちらに迫つて来るやうな気がする時もある。さういふ錯覚は一種の恐怖に似て神秘的な楽しさである。星の瞬きは太古から人間にいろいろな暗示や空想を与へてゐる。」
巨大なものが星を乗せて迫ってくる、という感覚は私も共通な感覚であった。小学校に入ッタばかりの頃の私の場合は、巨大なものが巨大な虚無、果てしなく深い尺度の時間と空間を抱えて私を飲み込んでしまうのではないか、という恐怖であった。それは中学生になるまで続いた。
大江健三郎の「宇宙のへりの鷲」は大江の文学論として興味深く読んだ。
「宇宙論的な構想というように、極大のところから出発して架空の物語をつくり出そうとする場合(‥)、いったいその小説は、現にいまこの時代を生きている書き手の、状況にかかわっても、本質にさかのぼっても、決して他の人間といれかえ可能でない、その肉声をどうすれば響かせることができるのか?」
この問いの前に多くの人はたじろいで書くことを断念するのである。