Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日は休肝・休養日

2019年06月09日 22時46分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休養・休肝日。といっても団地の管理組合の残務を少々手がけた。いろいろとパソコンににらめっこしているうちに、時間が経ってしまった。
 残念ながら予想どおり雨が上がらないので、ウォーキングは中止。それでも横浜駅までの往復を歩いたし、地下街で書店や家電量販店をめぐったので、最低限の歩数は確保。

 明日も気温は本日と同じくらい、雨は一日降り続くらしい。梅雨の天候が続く。


雨が本降りとなる

2019年06月09日 20時13分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の最高気温は11時過ぎにかろうじて20℃を超えて20.1℃。「雨ときどき止む」という予報だったが、夕方までは降らなかった。17時過ぎから弱い雨が降り出し、現在ようやく本降りとなった。といっても時間雨量は5ミリ未満である。
 水曜日まで雨が続く、との予報になっている。

 夕方になって降り始めた頃に、横浜駅から自宅に向かって歩き始めた。家まで10分位のところで傘をリュックから出して差した。。
 自宅についてちょうど1万歩をクリア。しかしこの雨は夜中まで続きそうな気配があり、夜のウォーキングは断念せざるをえないようだ。

 横浜駅の地下街で、データのやり取りようにUSBメモリーを950円にて購入。メールだけではやはり大容量のデータの送受信は難しい。このUSBメモリーがいつも人に貸すのだが、戻って来なかったり、戻って来ても仕舞い忘れて、どこかに無くしてしまう。数年前に780円ほど安いUSBメモリーを三つほど購入した記憶があるが、ひとつも残っていない。私の責任が少なくとも50%はある。小さすぎるのも考えものである。かといってかさばるものも面倒くさい。

 私はいつも文章を作るのは一太郎に頼っている。使い慣れているし、私なりに使い込んでいろいろと複雑な文章が出来てしまうので重宝している。しかし他の方とは共通性がない場合が多く、データのやりとりが、ワードへの返還か、PDFのどちらかとなる。一太郎の画面からワード形式での保存も呼び出しもできるのだがついそれを忘れてしまう。


「荘司福・荘司貴和子展」感想3

2019年06月09日 14時30分48秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 荘司福の晩年の作品では「春雪」(1991)が私には好ましかった。とくに右上の月が白く、山の雪と呼応して、山から湧き出たように浮かんでいる様が印象的であった。これと対角線上の左下に枯れた白い樹木がこの作品の眼目のようにピントが合ったようにくっきりと描かれている。月の浮力と、くぼ地を表す黒い遠景を後ろにした白い木が、大地の重さを支点に釣りあったように見える。白はその力を象徴したものと感じた。

 以前にもこのブログで取り上げた「春律」(1986)、「到春賦」(1987)以降、白を基調とした画面から色彩の厳しさ、鮮烈さ、緊張感が一気に希薄になってしまうように感じた。この「春雪」は1991年の作品であるがこれを除いて、画面には白の彩色が効果的に現われているものの、私には緊張感が抜け落ちていないだろうか。



 「山響」(1990)は、仙台市内の秋保大滝の5月若葉の頃の情景であるらしい。具体的な場所の特定は別として、若葉の緑としては旺盛な生命力の発露を画面に受けとめる、というよりも調和と安住が眼目に思えた。私の素人のとぼしい知識による思い違いかもしれない。それとも60代末で気力に難のある私がいうのは、失礼であろうか。そればかりか、80歳を超えて「春雪」を描いた荘司福の気力にまずは敬意を評さなくてはいけないのだろう。でも少し寂しい気がしたことは確かだ。緊張感ばかりを作品に求める私の精神に問題があるのだろうか。



 今回の展示では、荘司福の息子の妻となった荘司貴和子(1939~1978)の作品も数多く展示されている。ともに旅先で作品を描いたようだが、彼女は40歳に満たずに亡くなっている。抽象画といわれるのであろうが、「玄海の月」(1976)が図録の表紙にも取り上げられており、代表作というのであろう。私にも共感するところがあった。
 青は海、左下の黒い塊は岩礁、黄色の月はその影を青く海に映している。白い帯状の形象は波であろうか。このように具象的に見てしまうのは良くないとはわかっていても、つい対応関係を求めてしまう。右上の白い帯はなんの象徴になるのか。そのような詮索はせずに、純粋に色と形態のリズムを楽しんだ方がいいのかもしれない。しかし丸い影のような青も印象的である。
 月の下に描かれた折れ点のある白い帯状の形象は他の作品にも表れ、印象深い形態である。そしてこの「白」に荘司貴和子もこだわりを見せている。
 短い帯状の白い形態が繰り返されたり、白い形態の下塗りの模様などが浮かび上がるように縫っていたり、荘司福との何かしらのつながりを感じた。
 荘司福は「彼女の澄んだ感覚が自由に伸びて展開して行ったらどの様な仕事になるか大変興味深かっく思い‥」と述べている。

齢抱くごとく熟柿をすすりけり(齋藤玄)

2019年06月09日 12時09分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日ネットで偶然に、齋藤玄という俳人の句を見かけた。印象深く、とても惹かれた。
★齢(よわい)抱くごとく熟柿をすすりけり

 年譜を調べると、以下のようになる。私なりに並べてみた。
1914(大正三)年8月、函館市青柳町に生れる。本名俊彦。
1937(昭和一二)年、早稲田大学在学中、新興俳句に惹かれ「京大俳句」に入り西東三鬼に師事する。
1938(昭和一三)年、北海道銀行に就職、翌年留守節子と結婚。
1940(昭和一五)年、壷俳句会を興し、俳誌「壷」を創刊。
1940(昭和一八)年、石田波郷を知り、波郷の主宰誌「鶴」に初投句し、巻頭を飾る。翌年、空爆下の東京勤務を避けるため銀行を退職する。
1951(昭和二六)年、新設の北海道銀行に入行。多忙な生活などから俳句は一時休眠。
1967(昭和四二)年銀行を退職し、道央信組の専務理事に就任する。翌年、個人誌「丹精」を発行。妻の癌死を詠んだ「クルーケンベルヒ氏ヒ腫瘍と妻」を連載して俳壇に注目される。後に川端康成、波郷の絶賛を受ける。
1978(昭和五三)年、直腸ガンで入院。旭川に転居。
1979(昭和五四)年、第五句集「雁道」により蛇笏賞を受賞。
1980(昭和五五)年、癌との闘いの末、旭川で死去。66歳。
当初のモダニズムの傾向から伝統的韻文形式を経て、第二次世界大戦後は根源俳句の影響を受けた。後、妻の死や自身の病を得てからは死を見つめる透徹した句を発表。

 ネットでとりあげられている句の内、印象に残ったものを順不同で並べてみる。
★晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ
★たましひの繭となるまで吹雪きけり
★明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり
★死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒
★癌の妻風の白鷺胸に飼ふ
★睡りては人を離るる霧の中
★流氷を待ち風邪人となりゆけり
★残る生(よ)へ一枝走らせ枯芙蓉作
★残る生のおほよそ見ゆる鰯雲
★晩年の不意に親しや秋の暮
★晩年の過ぎゐる枯野ふりむくな
★冬の日と余生の息とさしちがふ


 表題の「齢抱くごとく熟柿をすすりけり」は、弱った体調と、少しの力を加えるだけで崩れてしまう熟柿とが並んでいる。熟柿のような自己、という認識が61歳の作者の老いの認識である。このような認識、諦念に私は驚嘆し脱帽した。齢(よわい)というからには身体だけでなく精神も含んで「熟柿」のような自己と認識しているのである。妻の病、自己の病と向き合った人の精神を垣間見ることができる。
 最後の句「冬の日と余生の息とさしちがふ」は、北海道の冬の日、生命の衰えを象徴するような冬の陽射しに向って、作者が「余生の息」を吹きかける。たぶん冬の弱った陽射しであっても、体調の弱った人の息は押し戻されてしまうであろう。それでもその冬の陽射しと刺し違えるように、余生の力をみなぎらせる、そんな意志の力を感じさせる句であると解釈してみた。三年後に作者は癌との闘いを経て亡くなる。

 句集を手に入れてみたいと思った。