Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

桜の実・さくらんぼ・桜桃の実

2019年06月30日 22時59分34秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 今年初めてサクランボが食卓にあがった。久しぶりのサクランボのように思えた。ブドウとは違って必ず固い種がある。その種がないとサクランボとはいえない。ほぼ二つの実で一対なのだが、パック詰めのサクランボは対にはなっていない。これは少々さびしい。
 桜の実は食用ではなく、塾すると赤黒く小さな実を葉のうらにつけている。見落としてしまいがちである。とても酸っぱく且つ渋くて食べられたものではない。だが、桜蘂と同様に桜の木の下にうち重なって、時には人に踏まれて潰れている実は、桜の木の存在を夏場に思い出させてくれる。

★戦捨てし山河晴れたりさくらんぼ    加藤風親旗
★葉の陰に揺れはそれぞれ桜の実     庄司たけし
★桜桃を見納めにして陸奥の夢      鈴木芳正


「叫ぶ」ということ

2019年06月30日 13時48分31秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 筆力の無さで伝えられないもどかしさを抱えながら・・。

★黒南風の岬に立ちて呼ぶ名なし     西東三鬼

 歌謡曲の世界なら、津軽海峡や宗谷岬の冬の最中に何かを叫ぶ時もあろう。だがこの句、梅雨の合間の生暖かい風の中で、叫びたい衝動にもかかわらず、対象の人が声にならない。心のうちで叫んでいるのだろうか。あるいは叫びたい衝動はあっても、自らの空虚にたじろいでいるのかもしれない。「叫ぶ」ということ、ドラマやお芝居では当然の感情表現だが、実際にそのようなことはほとんどは出来ない、またしないものだ。

 ある年、20歳を過ぎたばかりの私達は思い切った行動に出た。私達の世界を観念の中だけでなく、現実の空間として。だが、そこに出来たのは空疎で空虚な、暗黒の空間だったのではないかという思いに50年近く経っても囚われている。それは私たちの世代の体験だけではなく、多分どの世代にもあり得た体験だった可能性は高い。
 人の行動の後ろには、常に空疎で空虚な、そして黒々とした情念の世界がついてくるように思える。だがそれは決して空疎でも空虚でもない。混沌なのである。その混沌を共同の観念の力で、あるいはそれぞれの自己の営みの中で形あるものにするのが、人の「生」である。それを為すので時間に耐える、という覚悟と自覚である。私も含めてその時点ではそのことに無自覚であったことは否めない。
 当時、そのもどかしさを真冬のビルの屋上や夢の中で叫ぼうにも叫ぶことの出来なかった私が今、ここでへろへろと生きている。ただし当時から今まで、頭を垂れることだけはしなかった。したくなかった。

 これが「無惨な半世紀」であったのか、今もこだわる「何か」なのか。ただ言えることは半世紀前と同じく今も、安易に叫ぶことは私はしない。同時にこれからも過去を無かったことにはしない。


強い陽射しと強風

2019年06月30日 12時58分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 骨髄採取の痕に貼っていた絆創膏は本日より外した。特に問題はなさそう。痕も見えない。

 本日は10時くらいから横浜では日が照り始めた。陽射しが痛い。次第に風が強くなり今は、風が唸っている。南側にある高いケヤキが風に煽られ大きく揺れている。11時に最大瞬間風速が15㍍を超えた。
 南西の風でとても暖かく、湿った風である。西寄りの風の為、向かいの号棟の隙間から直接ベランダに吹いてくる風ではない。そのため思いのほか、洗濯物は煽られていない。8時頃に起きた頃は涼しいくらいだったのに、10時近くになって一気に25℃を越えたようだ。

 一方で、九州地方の雨はかなり強いとの報道。

 本日は夕方まで休養。