Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

寒い

2020年07月15日 22時27分59秒 | 天気と自然災害

 ブログのコメントで指摘してもらったとおり、目を暖めながらしばらく寝ていた。中学生の頃から目が疲れると蒸しタオルで目を暖めていたが、つい忘れてしまうこともある。指摘してもらって思い出した。指摘、感謝である。
 効果は確かにある。もっと早くに気がつかなくてはいけない。
 用心をして、パソコンの画面の字はやはり120%にして文章を打ち込んでいる。これが終ったら、本日は本もテレビもなく、寝るに限る。

 雨は少しずつ強くなっている。ケヤキの大木の葉にあたる雨粒の音が微かに聞こえ始めた。ベランダの雨水用排水管を流れる音は夕食の頃から次第に強くなってきた。気温も少しずつ低くなっている。先ほどベランダに出て見たら、半袖では寒かった。
 雨の区域は西から東へ、そして神奈川県西部には雨の区域は無くなった。日付が変わる頃には雨は上がる可能性はありそうだ。
 この雨では夜のウォーキングはあきらめた。

 褒められると調子に乗って写真2枚。

   


目がつらい

2020年07月15日 18時23分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は残念ながら目の調子がよくない。霧雨の中、30分ほど歩いて喫茶店でコーヒーを飲みながら読書するつもりだったが、活字に焦点が合わずに断念。1時間ほどボーっとしていた。それでも焦点が合わずに、再び歩いて帰宅。
 この文章も、いつもは実寸の95%の縮尺で画面表示しているが、120%に拡大してかろうじて打ち込んでいる。
 ということで、最近撮影した写真をアップして終了としたい。

      


三流時代劇

2020年07月15日 13時05分27秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 ツィッター上では「#GoTo予算を医療に回せ」「#GoToキャンペーンを中止してください」というタグがトレンド入りしているという。当然であろう。この時期に、しかも感染の在り様が未だ不確定の段階で、旅行キャンペーンを政府が音頭を取るというのには愕然とする。
 無症状の段階でも人に感染させてしまうということが明らかとなりつつある。感染力の極めて強い場合がある。なども報告されている。

 「三密」を避けるのは最低限の防御方法で個人の努力の範囲である。これだけで感染の蔓延が防ぐことが出来るわけはない。それならば医療従事者の院内での集団感染が発生することはまずないはずである。
 東京とその隣接3県、大阪などに集中している感染判明者の状況では、自治体が把握していない無症状の感染者、そして本人も感染していることがわからない人が多く存在している。それが移動や旅行先での感染の原因者になってしまうことは明らかである。
 今回の豪雨被害の地域では喉から手の出るほど欲しい県外からのボランティアの受け入れを遮断せざるを得なくなっている。また地方の医療体制が脆弱な上に、感染が拡大したら危機的状況になる。

 検査も満足に行おうとしない政府が、新型コロナウィルスの全国蔓延を後押ししているということになる。特効薬もなく、有効な予防接種も確定できない段階で、こんな愚策がまかり通ると考えること自体が政治家として恥ずかしくないのだろうか。アベノマスクに次ぐ愚策である。
 経済対策としても、旅行業者だけが潤うのではないか、地元経済への波及よりも三密を避ける負担ばかりが増えるのではないか、などと地元から疑問も出ている。制度設計自体の再検討も必要のようである。疑問・批判にきちんと応える必要が政府にはある。発足することばかりが目的化している。そしてそもそも発注そのものの在り方が問題視されている。

 野党の言い分を聞かない、人の話に耳を傾けない、いったん立ちどまることが出来ない、願望が先行し精神論を振りかざす、方針転換を恥と考える、動き出したら止められない、実体把握を行わない、特定の業者との癒着、意思決定の責任回避のために隠蔽・改竄・記録破棄‥。まるで時代劇の悪代官のちんけなあり様そのままの政治構造ではないか。

 勧善懲悪の時代劇には「正義の味方」が多く存在する。だが「権力構造」と一体の「善意の権力者」に期待するのはもうやめにしたいものである。時代劇としてながく続いている水戸黄門や暴れん坊将軍や遠山金四郎などのような「正義の味方」を願望していても真の「正義の味方」は現れない。権力構造を温存させてしまう負の歴史の連続でしかない。
 しかも現在の政権与党の中からの「正義の味方」など望むこと自体が無理である。今の政権与党の政治を見ていると、為政者は何が悪で何が正義か、ということすらわからなくなっているとしか思えない。政治理念が無く、悪が定義されなければ与党内に「正義の味方」など望むべくもない。「何が悪か、何が正義か」という理念が無ければ、正義の味方が降臨出来ることも出来ず、そんな時代劇は三流以下のドタバタである。
 一時もてはやされた座頭市や闇の仕事人や木枯し紋次郎の世界も我々の視界から消えて久しい。彼らは権力者とは無縁であることを貫くが、怨念を鎮めはするものの晴らすことはない。個人を断罪するが、腐敗の根拠・制度の欠陥には迫ろうとしない。いっときの清涼剤の位置といってしまうのは惜しいが‥。さらにいつしか殺しの美学、殺陣の美学に移行していったと思う。
 木枯し紋次郎はたたかおうとしない人には味方にはならないという「ニヒル」が売り物だった点が多くのファンを集めたが、中途半端に終わってしまった。
 最近は時代劇ではなく、ミステリーもので政治の悪とたち向かう、というのも流行り出したとのことである。それらが陰謀論に堕してしまわないことを願っていることだけは此処で表明しておこう。

 さて、現在は江戸時代という近世ではないのである。願望では政治は浄化しない。民主主義と、独裁ないし権力の暴走とは、歴史の教訓では表裏一体の緊張関係にある。フランスの近代の始まりの革命記念日以降の歴史は誰しもが教科書で学ぶ。奇しくも昨日はパリ祭であった。
 権力者を交代させる「正義の味方」は憲法上は主権者である。「権力は腐敗する」は人間社会が「権力構造」を作り出したときから逃れられないものである。それを防ぐ手立ての歴史が人間の歴史である。防ぐことが出来なければ、独裁ないし権力の暴走で民衆が苦しむ。あるいはそれを招いた社会そのものが衰退し歴史から消えていく。

 すでに日本社会の衰退は始まっている。モノ作りも、文化も、食料も、エネルギーも、環境対策も‥。経済の成長が社会構造をより進歩させるという幻想にすがっていられなくなった。今回の新型コロナウイルス感染症の問題でも、日本の資本主義の弾力は無くなったことが明るみに出た。生産ラインを状況に合わせて医療器具や衛生用品などに転用・運用することも即座には出来ていない。ワクチンや特効薬の開発や生産は、果たしてどうなるか。
 働く者が報われない社会が目の前の光景である。第一線の医療従事者などの働く者に対しては過酷な労働を強い、処遇改善すら行わずに政府は放置をする。人的不足を補うために離職したばかりの医療の有資格者の活用などを図るために充実した処遇の指針を政府が作るとか、同時に医療器具・防護機材の供給増をはかるなどの施策はなかった。
 それどころかウィルスの運び人と差別される状況を放置してしまった。運送業者にもそのような悪罵が投げかけられた。

 機動力と応用力の効かない政治と経済、目を覆いたくなるような日本という社会、坂を転がり落ちる日本という社会に生きていることに私たちはもっと自覚的でありたい。自覚的な人々の努力はあちこちに垣間見える。しかし漠とした不安は、他国へのバッシングで留飲を下げるというところまで劣化している。