昨日は岩波文庫で「老子」(蜂屋邦夫訳注)の第18章を読んで感想を書いた。多くの場合、この本が元になっているのであろうと思われる。
私の手元には、ちくま新書の「現代語訳老子」(保立道久訳・解説)がある。日本史家の保立氏のなかなか現代的で大胆な解釈に基づく訳であるといわれている。
岩波文庫版では、「老子」は複数の作者によって成立したという前提に立っている。ちくま新書版では、小川環樹も引用しながら単一の著者による「詩的」な書としている。
どちらの前提が正しいのか、どちらの解釈がいいのか、それを判断する能力は私にはない。両方を並べて読んでみることにした。
第18章は、岩波文庫版の蜂屋邦夫の現代語訳は「それゆえ、おおいなる道が廃れ出してから、それから仁義が説かれるようになった。知恵がはたらきだしてから、それから大きな虚偽が行われるようになった。家族が不和になりだしてから、それから孝子や慈父が出てくるようになった。国家が混乱しだしてから、それから忠臣が現われるようになった。」
ちくま新書の保立道久の現代語訳は「道義を棄てておいて仁義を説教し、知恵をつかってこれは偉大な人為であるなどと大嘘をつく。そして親族の中で喧嘩をしていながら孝行を説教し、国家を混乱させておきながら忠臣づらをする。何ということだ。」
前者は「老子」が出来上がった時代の政治・社会状況を、一般化・普遍化し客観的に叙述した歴史哲学書としてその文章と向かい合っている。
後者は目の前の現実をごく具体的な政治批判としてとらえた文章として相対している。どちらかというと志を述べるという中国の伝統的な「詩」の形式として読んでいる。保立氏は「老子」の文章を現在進行形の政治に対する発言とみていると私は思う。
それは両者の「老子」に向かい合う姿勢の違いでもあり、現実に相対する姿勢のあり方の違いでもあろう。特に保立氏は現代日本の政治状況に盛んに発言をしている方である。
後者の姿勢に惹かれて私はちくま新書の「老子」を以前に購入して、本日初めて紐解いた。そのかわり大胆な解釈や漢字の読みもある。あまり理解できなかったとはいえ一応目をとおした55年も前の漢字の読みに慣れている自分もいる。
両者を比較するのを楽しみむために、ときどきこの二つの書を紐解いてみたい。通読はせず、ときどき目をとおしたい。