Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「若冲」(辻惟雄) その3

2020年09月25日 18時30分37秒 | 読書

  

 「若冲」(辻惟雄、講談社学術文庫)を読み終わった。昨日までに「三、印譜解説」と「四、若冲派について」を終わり、昨晩と本日で「図版解説」を読み終わった。図版解説は78枚である。
 私が気になっている作品の図版と解説を引用してみたい。今回は4作品。いづれも動植綵絵から。



 はじめに取り上げるのは、「雪中鴛鴦図」。動物を描いたものの中では動きのない、あるいは少ないものの一枚で、絵がいある鳥も5羽と少ない(うち3羽は鴛鴦ではなくしかも小さい)。私はこのような動きのないもので、好みである。
 動きのあるものは、水中に頭から半身を入れて餌をあさっている鴛鴦で、これも動きはおとなしい。
 解説は、
「静的な秩序というものを綵絵三〇幅のうちに求めるとすれば、この図などがまず挙げられるだろうか。雪を附けた柳の枝の下や岩組の垂直線、凝結したような鳥たちの姿――これらはたしかに〈静〉につながる。とはいっても、元、明の雪景花鳥図の寂寞感をこの図に求めることはできない。鳥の羽毛や椿花に施された豊麗な配色や、若冲の創意と思われる胡粉の〈吹きつけ〉による降雪の表現が、一方で画面に賑やかな装飾的伴奏を加えているからである。‥芥川龍之介の詩「動物園」の中にある、「鴛鴦」と題した一節は、多分、本図を脳裏にして作られたものであろう。」
と記している。



 次が同じく動植綵絵から有名な「群鶏図」。これはあまりに有名であるが、私はちょっとひいてしまうものである。
 解説は、
「もっともよく知られた図である。綵絵中八図を占める鶏連作の、おそらくは最期に位置し、内容的にもその集大成としての意義を持つ。若冲の執拗な観察と想像力、装飾的才能の三者がここに見事な三位一体をなした感がある。描かれているのは、すべて雄鶏で、頭の数から十三羽とわかるが、体形と羽毛は複雑に入り組んでどれがどれのものか判然としない。若冲はここで、従来もそうであった傾向――すなわち、鶏の個体の外見の正確な描写より、その〈美しさ〉の等価値を生み出すことをより重視する態度――をいっそう徹底させ、羽毛の多様なパターンの抽象化と、その精妙な平面的配合から、このように公共的な豊饒さに満ちたアラベスクをつくり出した。。紅い妖星にも似たトサカの中に金色の眼を埋め込んだ頭の同数反復が、画面の蠱惑を決定的なものとしている。」
としている。

 次も動植綵絵から、私は目がくらんでしまう「牡丹小禽図」。この稠密な画面構成は「郡鶏図」
と同様に、始めに取り上げた「雪中鴛鴦図」と対極的な作品だと思う。「群鶏図」は鶏の配置の妙を見せているが、見ていると十三羽の鶏は、絶え間なくめまぐるしく、そして小刻みに動いている。しかしこちらの鳥2羽は牡丹とコデマリに埋もれた動きを封じられているようだ。微かに首を巡らせることだけが許されている。
 解説では、
「「空間恐怖」という用語を想起させるような、絨毯のように描き込まれた画面である。牡丹に岩、コデマリと思われる白い花と庭の小禽(と小禽の狙う一匹の羽虫)がモチーフのすべてであるが、若冲の執拗な描写意欲が、それをこのように目くらむような複雑混沌の空間に仕立て上げた。われわれの江戸美術に対する概念を打破するような、余白否定の態度に貫かれたこの図は、綵絵連作を通じて若冲が追及して来た装飾空間の、一つの極限的な姿を示すものだろう。‥牡丹の花弁の文様的な輪郭づけが、細密な画面に重厚さを与えると同時に、いくぶん息苦しいものにもしているのだが、一方で、コデマリの葉の描写など、最晩年につながるような軽妙さが細部のタッチにあらわれている面も見逃せない。」
と記している。
 まず羽虫は私はどうしても見つけることが出来ないのだが、指摘は当然正しいと思うが、鳥と羽虫の緊張感を孕んだ画面ということになる。そのドラマが牡丹とコデマリの稠密な配置によって隠れてしまっている、と頭の固い私は思ってしまう。
 一方で牡丹やコデマリには動きはないので、群鶏図よりはずっと見やすい。しかし見つめていると赤・白・ピンクがかった牡丹の少しずつ回転を始めていく。解説を読んでからこの作品を見直すと、鳥もまた回転してこちらを穿つように飛び出して来る。



 次も動植綵絵から、これは私の好きな「芦雁図」である。こちらは最初の鴛鴦図よりも登場する鳥は少ない。わずか1羽。ただし上から下へ、一直線の運動方向が鋭く、そして大きく拡大して描いている。雪を附けた芦の葉は静止している。対になる「芦鵞図」も大きく白い鵞鳥を描いているが静止している。
 解説では、
「画面いっぱいに翼をひろげた雁が、凍った池面へ垂直に落ちて行く。鳴雁といって、地上の仲間と呼応しながら水辺に降りて行く雁が、ちょうど失速したような姿勢である。単純な構図の中に主題の鳥を拡大して描く手法は、明の花鳥画にも見られ、また、獲物を狙って急降下する猛禽がこのような角度で描かれる例はある。だが、何故にこの雁が、イカルス墜落のごとき姿勢をとらねばならないのかは、おそよ知り得ない。この奇妙な雁に対置されて、忘れがたい印象を与えるのは雪芦の描写である。「雪芦鴛鴦図」の‥写実と幻想の混交する美しい雪芦のパターンが、十年近くをへて、いくぶん写実味を加えた、より強固なイメージへと発展しているのがみられ。一方で雁の翼や首のやわらかな曲線などには、晩年の様式の胚胎がある。」
となっている。 



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