「香月泰男展」は幾度か見ており、目にした作品も多い。
しかし今回はこの「門・石垣」(1940)という作品に初めて惹かれた。以前に見たのはいつだったかは覚えていないが、2011年の発売の「別冊太陽」の「香月泰男〈私の地球〉を描き続けた」で見たのかもしれない。
ハマスホイを思わせる画面のよいに開け放した扉の構図である。しかし扉の向こうは無限を思わせる空間の広がりが存在するのではなく、なんと石垣で遮られ、しかもその石垣は緑の石が摘まれたもので、陰影が濃い。苔の色と思われる緑の石は冷たく鎮まっているのだが、左から強烈な光が差し込んでいる。どこか非現実的な、非日常的な世界に吸い込まれる。それゆえに遮られているにもかかわらず、奥行き感があり、石の存在感に惹かれる。見ている私は石の重みに比して自分が飛翔していくような錯覚に誘われた。
その効果の一つが手前の斜めにおかれた棒1本ではないか、とようやく気が付いた。
ハマスホイとは違った意味で空間の広がりを意識させてくれる。ハマスホイが灰色で輪郭のぼやけた描き方でその世界を確立しているが、ここでは鮮明な仕切り線と、そして緑のあざやかな色彩が効果的であると感じる。
次の「尾花」(1940)は、初めて見る作品であると思う。こちらは少ない色数、モノトーンに近い。実際はもう少し白が浮き出ていた画面だったと記憶しているが、図録の印刷やスキャナーではうまくその雰囲気が再現できていないのが残念である。
今回はこの作品にとても惹かれた。上部の大きな形態の白のグラデーションは途中でカットされる。中央の細い繊維の入り組んだ描写、株の太い幹のような茎の塊、だれの作品が念頭にあったのだろうか。こちらについては図録にも解説はなく、純粋に私だけの感覚で楽しむことができる。
左上からの温かみを含んだ柔らかい光が、静かな落ち着いた世界に誘いこんでくれる。
一番時間をかけて見た作品である。
この二つの作品はいづれも1940年、結婚2年目で長女が生まれている。世の中はいよいよ泥沼の戦争から抜け出せなくなり、息苦しい時代である。そして画家をシベリヤへ送り、未曽有の体験が目の前に迫って着ている。
前者は翌1941年に国画会展で発表されている。後者の発表年月日は私には不明。前者は生家に帰省した折りに描いたことになっている。人間の不在は、育てられた厳格な祖父との関係、再婚して津和野にいる実母と始まった往来などを踏まえると、生家の山口との複雑な関係に引き寄せてしまうのは、間違った解釈になるのだろうか。