Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読了「万葉のことばと四季」

2022年04月14日 22時08分21秒 | 読書

      

 「万葉読本Ⅲ 万葉のことばと四季」(中西進、角川選書)を読み終わった。「もう少し時間をかけてじっくり楽しみたかった、残念ながら読み終わってしまった」という思いもある。

 最後の章「万葉歌人の系譜」の内、「柿本人麻呂」、「山部赤人」、「山上憶良」、「旅人と家持」、「無名者たち」が昨日から本日にかけて読んだ部分。

「歴史はいうまでもなく過去への省察だから、人麻呂が人間の死に対して敏感であったのは、当然のことである。人麻呂は死の詩人とよぶことができるほどに、彼は人の死を悲しむ歌において真骨頂を極めた。‥人麻呂は人間の生と死とに深くかかわっていった。この深入りのゆえに、切れはもっとも本質的な詩人たりえた‥。」(「柿本人麻呂)」

「赤人はけっして人麻呂のエピゴーネンにすぎないのではない。正しく伝統を継承しながら、これを構造体に再構成することによって和歌を発展せしめたのだといえるだろう。人麻呂が情念的なら、赤人は視覚化して風景化して物をみようとした。もちろんその場合現象的・即物的に物を見るのではない。‥赤人が整然とした構成をもって物を記述することを、私は彼が平城京という条坊制の都城に生活した人間だったことと密接に関係があると考える。作られた生活空間――自然そのままの原野にいるのではない、区画された都市を生活空間とする歌人であってはじめて、かかる歌が誕生しえた‥。」(「山部赤人」)
「人間の影が顎いている自然が赤人の自然である。風景をあまりにも抽象化してしまって、そのゆえにできた空虚にたえがたくなった詩人の孤独が、しきりに求める人間の影だったのではないか。抱かるべき自然を失った赤人は孤独な詩人であった。」(「山部赤人」)

「もはや集団としては行動しきれなかった時代の、個別化の極限状況に立たされた人間は、組織に依存して「士」としての安心立命を求めたはずである。個別的な名声を求めるという自己矛盾の中に引き裂かれたのが、憶良たち天平の歌人であった。その上に憶良が渡来人だとすると、なおのこと大陸的教養は深く身についたことと思われる。」(「山上憶良」)

「旅人が(酒・梅・萩・雪などの)景物に接したのは、彼の教養によってであった。この歌境は独自のものであった。こうした旅人に対して、家持はもっと歌自体の達成を深めていった‥。旅人には和歌とはこういうものだという、囚われた見方があった。これに対して家持はもっと自由に、歌を折々の感興の赴くままに感情を表現するもとしてしか考えなかった。‥歌は心中の鬱情を撥うものである。表現はただ内面のために存在していた。名状しがたい内心の情念に形を与え、よって理解の中に所有することが歌を作ることであった。そこにはもう歌を何かの功利的な手段と考える考え方は存在しない。その考え方は近代の歌人石川啄木だか「歌は悲しき玩具である」といったのときわめてよく似ている。家持の抒情が近代的だといわれる理由も、そこにあろう。‥歌人家持はつねに孤独であった。」(「旅人と家持」)
「(人麻呂の)呪的なざわめきと、(家持の)幽邃(ゆうすい)なひびきとの差は、何と大きいことであろうか。都市の「わが」なる語をもって形容される領有空間「やど」のその〈造られた〉世界の中において、はじめて鋭敏に棲息することのできた詩人が、大伴家持であった。旅人もまた、彼を遠ざかること、大であった。」(「旅人と家持」)

「万葉集の作者未詳の歌は全歌数の半分を超えるのである。これは並々のことではない。‥無名歌というのはねきわだった個人の作として創作されたのではない。いつしか集団の人々中から歌いだされ、また集団の中に愛誦されて伝えられたものである。‥作者によって伝えられるよりも作品によって伝えられたために、作者名が消えていった場合もある。」(「無名者たち」)
「防人たちの歌はこうした悲しみを歌うものが大半である。勇ましく征途にたつという具合のものはほんの一握りに過ぎないことは、防人がたとえ記名されていても、無名者の集団に属し、その中で安住すべき者たちだったことを教えてくれる。たがら防人の歌に悲しみがみちていることは、いかに集団性が強かったかを物語ってもいる。この強固な集団性こそ万葉集を万葉集たらしめている要素であって、万葉の有名歌人たちの歌もこの土台の上に造られたものにすぎない。それが後世の勅撰集などとははなはだしく異なる点である。」(「無名者たち」)

「都市文明の発達が急激であればあるほど、都と否かとのへだたりは大きくなってくる。東歌とよばれる歌の基盤がそれで、へだたりが大きければ大きいほど、両者の牽引も、ともどもに強かったであろう。都鄙はまるで話しことばと書きことばのように、両極をなしつつ牽引しあっている。」(「あとがき」)

 かなり飛躍した論もあるが、それが魅力である。近代短歌の石川啄木まで比較される時間の尺度でもっての歌人論、強引といえば強引であるが、着眼点を私はとても気に入っている。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。