本日は「辻征夫詩集」(谷川俊太郎編、岩波文庫)をめくってみた。次の詩が印象に残った。
林 檎
転がりし林檎投手は手で拾い
(掌(たなごころ)におさまる丸いもの
ちいさくつめたいかたいものを手にとると
おのずと投球感覚がよみがえる
できればこの艶やかな光沢をすばや
前方に一直線に送球したいが
球場ならぬわたくしどもの日常では
受けとめてくれるものが常にあるとはかぎらない
かくて林檎は 断念された夢のように
龍あるいはテーブルに置き直され
投手は
降板することも許されず
悄然といまある場所にとり残されている)
《俳諧辻詩集》より
この詩の最後の3行「投手は/降板することも許されず/悄然といまある場所にとり残されている」がずしりと胸に突き刺さった。それは本来のこの詩の意味とは無関係なのだが、私の今の心境に響いてきた。
むかし友人と「俺らはいつになったら人生から降板することができるのだろうか」ということを話し合ったことがある。もう40年以上も昔である。そのころ、多くのサラリーマンは55歳の定年。リタイヤした定年後、社会と切り離されて20年近くをどのように過ごすのだろうか、と20代半ばの私たちは真剣に思っていた。
だが、定年が60歳に延び、70歳近くになっても私たちはいまだに現役なのか現役をはなれたのか曖昧なまま現実の社会と向き合いながら生きている。
悠々自適などどこの世界のことか、家族や子や孫と付き合うだけでなく、社会との接点を断ち切れず、まして自分自身を扱いかねて、青春時代が延々と続いているのではないか。
そしてそのまま墓場に直行するであろう自分に辟易している。自分の人生の巻引きが想定できていない。
40年以上前に私たちの議論の俎上にのぼった親世代はそんなことなどおくびにも出さず、寡黙のうちに生きていた。私たちの方が人生の送り方が間違っていたのかと、おどおどすることも多い。だが、反省などしてられない。今が精一杯なのである。