午前中に工事業者が書類を持ってくるとのことで、朝7時に起きようと思っていたが、結局8時に起床。年寄りは早起き、という格言はわが家族には当てはまらない。
ケヤキの大木の下、日陰に毎年咲く彼岸花が今年も咲いた。一昨日まで蕾であったが昨日花をひらいた。
★照準の定まらぬ対峙彼岸花 藤井誠三
★砂に陽のしみ入る音ぞ曼珠沙華 佐藤鬼房
第1句、ちょっと怖くてよくわからないところもある。「戦」を連想させるのが、「照準」と「対峙」という言葉。戦前の言葉遣いは分からないが、戦後は企業では「販売戦略」だの「絨毯爆撃」「成長の突破口」だのと軍隊用語を平然と、不用意に使っている。それがデモや選挙でも政治家の発言でも使われる。何とも物騒な資本主義・「民主主義」が戦後75年になろうという今も続いている。
仕事なのか、政治的場面のか、何かを目的に他者と相対しているのだろう。その糸口が見つからないということなのだろう。こういう強いものいいに対して作者は大きな違和感を持っていると思われる。それが「定まらぬ」という語に籠められているのではないか。単に目的がはっきりしない、というだけでなく会議の在り様・人との対し方に腰が引けている。私には好ましい人の性(さが)であると思う。生身の人間のつぶやき・ぼやきを感じた。
さらに赤い不吉な予感と不即不離の彼岸花を配した。狙いは相対する人である。相対する人を倒すのか、販売対象者としての狙いなのか、何とも殺伐とした社会への違和感満載の句として理解した。
第2句、まずは「閑さや岩にしみいる蝉の声」(芭蕉)を思い浮かべる。鬼房の句は、無音の音。蝉の声ではなく太陽の光が砂にしみ入るときの音が聞こえるのだという。その光は墓場に眠る死者にとどくことはないはずである。それゆえに光が届くようになるために曼殊沙華が咲くのである。これには論理ははなく、感覚でしか理解できない。
同時に私は「いつのまにか、/今迄流れてもゐなかった川床に、水は/さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました‥‥‥」(中原中也、一つのメルヘン)を思い浮かべた。陽や陽を受けた音が実際に聞こえ始めた、という詩である。蝶にみとれていた間は無音であったけれど蝶が見えなくなると音が復活する。
場面は違うのを承知でこの詩を思いついた。赤い曼殊沙華から目を逸らした瞬間、無音であるはずの「砂に陽のしみ入る」音が聞こえたのだ。動く蝶と動かない曼殊沙華、だが目を奪うことに違いはない。それが目から逸れた瞬間、世界が変わる。
この変化を捉えることが、詩の成立なのだろう。