★蜥蜴と吾どきどきしたる野原かな 大木あまり
★糊硬き白衣の裾を蜥蜴去る 平畑静塔
蜥蜴という季語は夏。初夏、石垣やコンクリートの上で日向ぼっこをしている。人の姿を見ると実に機敏に素早く逃げ出す。その速さには舌を巻く。昆虫・蜘蛛・ミミズなどを捕食する。尾は切れやすく、切れた後もさかんに敏捷に動いている。外敵の眼をここに惹きつけ、本体は逃げるというテクニックである。そして再生するという尾には骨はなく、軟骨が形を作っているという。再生しても元の大きさには戻らないらしい。
第1句、蜥蜴は確かに心臓がバクバクと動いている。胸が大きく動いている。観察する人間と見つめられる蜥蜴、野原ではこの二つの生命だけが相対している。他に人気(ひとけ)などない世界である。
野原、という言葉から身近な一角と思われる。そんなところでも耳を済ませ、目を凝らすと生命の緊張感あふれる一コマが見えてくる場合がある。そんな緊張感を感じ取ったのではないか。
あるいは、ひょっとしたら「蜥蜴」と称しているのは、相方なのかもしれない、と読んでしまってはいけないだろうか。年寄りの詮索しすぎなのだろうか。
第2句、梅雨開けした頃の作品だと勝手読み。梅雨も終わりすっきりとした日、白衣も洗濯したてで糊が効いており、気持ちのいい休憩時間、座った庭の石、ベンチに先客の蜥蜴がいたのに気づかずにいたのだろう。あるいは颯爽と病棟の外に出る機会があったのかもしれない。
素早い動きでその存在、生命に気がついた一瞬。蜥蜴も日向ぼっこで気持ちよかったに違いない。そんな一瞬を蜥蜴と共有した。私などはそんな休憩タイムはとても気持ちの良い休憩タイムだと思う。白衣に蜥蜴の青い尻尾が鮮やかにはえる。
残念ながら今年はジメジメとして雨が長く続く梅雨である。その上涼しい。蜥蜴にはまだお目にかかっていない。
多くの人が蜥蜴を嫌うが、私は好きである。愛嬌のある顔をしている。娘も蜥蜴が好きであった。小学生のとき丹沢のハイキングで小さな蜥蜴を捕まえ、帰宅しようと虫籠に入れて電車に乗った。だんだん混んできて買い物袋を下げた若い女性数人が、「ギャー」と大声を出して娘から離れて行った。
娘は何が起きたのかわからずキョトンとしていた。私は何かとても悪い事でもしたのかと逆にびっくり。しかしそのまま横浜駅まで二人で座っていたことがある。多くの乗客のつめたい視線をずっと感じていたのを記憶している。
団地の草むらの中でときどき蜥蜴を見慣れていた娘は、捕まえた蜥蜴が気に入っていた。妻はちょっと気味悪がっていたが、娘に付き合っていた。数日間虫籠で飼ったのち、そっと草むらに放した。
その後、その蜥蜴がどうなったか、それは不明。また娘が今でも蜥蜴に愛着があるか、それも確かめてはいない。団地にはいまだに蜥蜴をよく見かける。今年も見る機会が欲しい。