Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「老いの深み」から

2024年06月10日 22時33分26秒 | 読書

   

 「春画のからくり」(田中優子)を少々読んだのち、黒井千次の「老いの深み」から2編ほどを読んだ。
 なるほどという感想と、そんな考えもあるのかと感心することと、そして「俺は反対のように感じていた」と首をひねる個所とがある。人間だから人それぞれの感想なり、思いがあるのが当然でそれが面白くてこの本に目を通している。
 本日読んだのは初めの方の「ファックス止り」と「まだ青二才という爽快感」の二編。
 「ファックス止り」では、「自分がついていけるのは、せいぜいファックスまでだな。」という感想を述べ、その理由として「(ワープロ・パソコン等の)その先になると、文字を手で書くのではなく、機械とのやり取りの中から文字を呼び出すような仕事となるためか、〈書く〉という行為のあり方が変わって来そうな気がする」を挙げている。
 すっかりパソコンにはまり込んで、パソコンがないと思考そのものが前に進まなくなった私も同感である。私の場合はワープロまでは「手書きの代わり」ですんでおり、手書きとの割合は半々であった。しかしパソコンになってから、いつの間にか鉛筆ではなくキーボードを叩きながら思考するようになった。著者の指摘のとおり、機械との対話の中で、思考と文字を呼び出している。

 さて、「まだ青二才という爽快感」も、パーティーで自分より年上の画家のしゃんとした立ち居振る舞いに感心しながら、「自分はこの画家に比べて明らかに若輩なのであり、未熟で足りぬことばかりの青二才にすぎず、失敗する場がこの先にいくつでも残されているのだ、という自由の感覚が芽生え、少年のような爽やかな気分の中に自分が放たれているのを感じた。」とある。ちょっと不思議な感覚だな、と思った。年上の人が自分よりもしゃんと立っている姿を見て、自己卑下するのではなく「自由な感覚が芽生え」ること、こういう感覚の方が確かに若々しい。そういう感覚になれることがうらやましいと感じた。
 しかしである、この引用の直後に唐突に「人間にとって絶対であるのは〈誕生〉と〈死〉だけであって、途中の年齢はすべて相対的なものに過ぎぬ、との思いが強く湧いた。」というのには驚いた。唐突な言葉が強引に繋がっていることへの驚き。
 もう一つは、私は「人間にとっては〈誕生〉は自分には選択権はなかったし、〈死〉にもない。ただしその途中のことはすべて自己責任、そこにこそ〈絶対〉がある」と教わり、実践してきたつもりであることからくる驚きである。
 親から与えられた〈誕生〉と、親の遺伝子を引継いだ〈自然死〉や社会から強いられた〈死〉を「絶対的」なもの、という捉え方・記述は否定はしない。私は「相対的」と表現してきたが。しかし「途中の年齢はすべて相対的なものに過ぎぬ」という表現は寂しい把握だと感じた。
 途中の年齢にこそ〈生〉の本質はある、そこにこそ人間にとっての「絶対的価値」が存在すると思いたいものである。

 同調と、知らなかった考え方と違和感とをないまぜにして楽しめるエッセイである。



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2 コメント

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通りがかり人様 (Fs)
2024-06-12 00:41:05
ちょっと独特の論理展開もあり、思いがけない結論や飛躍があったりします。そこに引っかかると読み続けるのがつらくなることがあります。
一話ずつ無理せず、「そういう考えもあるか」「俺はそうは思わない」とあっさりと読み継いでいます。私が読み続けられている秘訣かな。
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読み切れてない (通りがかり人)
2024-06-11 10:28:05
黒井氏の本は二冊か、三冊買ったが、途中で投げ出してしまいました。読みこなす力というか、気力というか、失せてしまう。も一度探して読んでみようか、迷う。
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